クローバー会の話
地震橋の新しいオフィスを出て、私はゆっくりと歩き出した。整備された大通りを抜け、かつての「本拠地」だったクローバー駅の方角へ。15分という時間は、仕事モードの脳を少しずつ解きほぐすのに、ちょうどいい距離だった。新しいビルでの整然とした静寂を背中に、少しずつ雑多で懐かしい街の匂いが近づいてくる。駅前の、あの少し傾いたような古いビルの地下。階段を降りると、重厚な木の扉が私を待っていた。扉を開けた瞬間、湿った木と微かなウイスキーの香りが鼻をくすぐる。そこには、地上とは違う時間が流れていた。「あ、こっちですよ!」 奥のボックス席から、横須さんが小さく手を振った。隣には矢田部さんもいて、二人はすでにジントニックを手に、何事かを囁き合って笑っている。「私、最後でしたか?」 「いえ、主賓がまだですよ。相変わらず、羽鳥さんはお忙しいみたいで」 矢田部さんが茶目っ気たっぷりに言う。私たちの間では、大島課長を本名で呼ぶことは少なくなっていた。数分後、階段を急ぎ足で降りてくる音がして、扉が開いた。「すみません、遅れました! 会議が長引いてしまって」 現れた大島課長は、相変わらずあの「羽鳥慎一」を彷彿とさせる、清潔感のある端正な顔立ちをしていた。けれど、東京本社から赴任してきたばかりの頃の、あの刺すような鋭さはもうない。ネクタイを少し緩め、申し訳なさそうに眉を下げるその表情には、すっかり大阪の空気が馴染んでいる。「いやぁ、この店、懐かしいですね。あのビルの地下に、こんな隠れ家があったなんて」 課長が席に着くと、第一回「クローバー会」が静かに始まった。乾杯のグラスが触れ合う、カチリという音。新しいオフィスでは、デスク同士の距離が広がり、用件はチャットで済ませるのが当たり前になった。けれどここでは、肘が触れ合いそうなほど狭いテーブルを囲んでいる。「移転して、確かに便利になったんですけどね」 横須さんが、琥珀色のグラスを見つめながら呟いた。「でも、前のオフィスでは、課長がため息をつくのが聞こえただけで、『あ、また難儀な案件抱えてるな』ってわかったじゃないですか。今は、そういうのが見えなくて、少し寂しいというか」 その言葉に、課長は苦笑しながら、けれどどこか嬉しそうに頷いた。「私もだよ。みんなが忙しそうにキーボードを叩く背中を見て、安心したり、焦ったりしていたんだ。あの狭さが、私たちのチームワークを作っていたのかもしれないね」 15分歩いて戻ってきた、私たちの原点。地震橋の新しいオフィスは、私たちの成長の証だ。けれど、この地下の薄暗いバーで交わされる、なんてことのない思い出話や、誰かの些細な変化を面白がる空気。羽鳥さん似の課長が、慣れない手つきでミックスナッツをつまみながら、大阪での苦労話を披露している。それを見守る二人の女性社員と、少し離れた視点からその光景を眺めている私。私たちは、新しい場所でうまくやっている。けれど、時々はこうして15分かけて、かつての「狭さ」を、そして互いの温度を感じられる場所に戻ってくる必要があるのだと思う。クローバー会の夜は、ゆっくりと、けれど確実に深まっていった。
地震橋の新しいオフィスは、午前中の光を効率よく取り込みすぎて、時々眩しすぎるくらいだ。昨夜、オールドバーの薄暗い灯りの下で交わした「クローバー会」の二度目の会合。その余韻がまだ指先に残っているような心地でキーボードを叩いていると、ふいに行き止まりに突き当たったような影がデスクに落ちた。「なあ、昨日の『クローバー会』、盛り上がったんだって?」顔を上げると、片岡が少し遠慮がちな、けれど好奇心を隠しきれない目で私を見ていた。彼は、父親が九州で米屋を営んでいるという理由だけで、社内ではいつの間にか「米屋の息子」という二つ名が定着している。実家から送られてくるという銘柄米の知識を披露するときの彼は、仕事のときよりずっと頼もしく見える男だ。 「ああ。まあ、昔話を少しね」「いいなあ。俺も、入れてくれないか。その会」 唐突な申し出に、私は一瞬、タイピングする手を止めた。 「クローバー会」には、横須さんと谷田部さんが決めた、ある種の「聖域」のような入会条件がある。それは、あの羽鳥慎一似の大島課長が東京から赴任してきたその瞬間に、旧オフィスの第二課に在籍していたかどうか。 その一点において、片岡は「アウト」だった。彼はそのわずか数ヶ月後に、入社してきたのだ。 「……一応、幹事に聞いておくよ」 私は努めてフラットな声でそう答えた。片岡は「悪いな、頼むよ」と、米屋の息子らしい実直な笑顔を浮かべて自分の席に戻っていった。 広いフロアを見渡すと、新しいメンバーが増え、活気に満ちている。それは喜ばしいことのはずなのに、私たちが作ってしまった「クローバー会」という小さな輪が、無意識のうちに透明な壁を作ってしまっているような気がして、少しだけ胸がちりとした。 片岡はいい奴だ。彼が入れば、会はもっと賑やかになるだろう。けれど、あの「狭かった頃の空気」を知らない彼を招き入れたとき、横須さんたちが守ろうとしているあの濃密な記憶は、薄まってしまうのではないか。 「米屋の息子」の背中を見送りながら、私は、拡大していく組織の中で「特別」であり続けようとする自分たちの傲慢さと、それゆえの寂しさを同時に感じていた。
給湯室の隅、お湯が沸くまでのわずかな待ち時間に、私は意を決して切り出してみた。「あの、片岡君の件なんだけど……。彼、クローバー会に入りたいみたいなんだ」幹事である矢田部さんは、ティーバッグをカップに入れる手を止め、ゆっくりと私の方を振り向いた。その所作には、迷いがない。「残念ですけど、片岡さんの参加はやはり難しいですね。入会条件からは外れていますから」きっぱりとした、、淀みのない声だった。彼女のその言葉を聞きながら、私は改めてその顔をじっと眺めてしまった。意思の強そうな眉、ふっくらとした頬、そしてどこか肝が据わったような独特の安定感。ああ、誰かに似ているなとずっと思っていたのだが、今しがた腑に落ちた。天童よしみに、そっくりだ。演歌界の歌姫が持つ、あの「なめたらあかん」と言わんばかりの、堂々とした存在感。矢田部さんの背後には、まるで紅白歌合戦の豪華なセットが幻視できるような、不思議な迫力があった。「でも、彼は『米屋の息子』だし、いい奴だよ。少し融通を利かせても……」「ダメです」 天童よしみが、マイクを握り直すかのように言葉を重ねる。「これは単なる仲良しクラブじゃないんです。あのクローバー駅近くのビルで、大島課長が赴任してきたあの瞬間の、あのピリついた空気。それを共有していない人が入ってしまうと、会の純度が濁ってしまうんです。わかりますよね?」 彼女の言う「純度」という言葉に、私はそれ以上言葉を返せなかった。新しいオフィスに移転し、組織が膨らみ、人間関係が希薄になっていく。その中で、彼女たちは必死に「あの頃」という聖域を守ろうとしているのだ。それは、部外者から見ればただの頑固な線引きに見えるかもしれないけれど、彼女たちにとってはアイデンティティそのものなのかもしれない。「……そうだね。幹事がそう言うなら、彼にはうまく伝えておくよ」 私は降参するように頷いた。矢田部さんは満足げに微笑むと、淹れたての茶を手に、悠然とした足取りで給湯室を去っていった。その背中には、地震橋の真新しいオフィスに馴染もうと背伸びする私たちとは違う、揺るぎない「浪花節」のような強さが漂っていた。 私は一人、沸騰し終えたポットの蒸気を見つめながら、片岡にどう説明すべきかを考えた。「純度が濁る」なんて、米屋の息子に言うにはあまりに皮肉が効きすぎている。
当時はまだ、すべてが牧歌的で、それゆえに酷く曖昧な時代だった。残業の申請はパソコンのログではなく、一枚の紙に手書きで時間を書き込むだけの自己申告制。その数行の数字が、そのまま給与へと直結していた。そんな性善説に基づいたシステムの隙間で、ある噂が静かに、けれど確実に淀みとなって広がり始めていた。「なあ、知ってるか。米屋の息子、また『盛ってる』らしいぜ」 そう囁きかけてきたのは、稲垣だった。彼はことあるごとに「俺、ヤクザの友達がおるねん」と嘯くのが口癖で、周囲からは半ば呆れ、半ば面白がられて「やくとも」と呼ばれている男だ。稲垣は、私のデスクのパーテーション越しに身を乗り出し、声を潜めた。「手書きなのをええことに、実際より一時間、二時間はザラや。あいつの申告、あてにならんぞ」 それだけなら、よくある社内の不平不満で済んだかもしれない。けれど、稲垣の表情には、単なる噂話を楽しむのとは違う、どこか湿り気を帯びた色が混じっていた。「わからんのは、大島課長や。あの羽鳥さん、なんであんなに片岡を高く評価してるんやろうな。仕事の出来なんて、お前や俺と大差ないやろ。評価の基準が、さっぱり見えへんわ」 羽鳥慎一似の端正な顔立ちを崩さず、いつもスマートに采配を振るう大島課長。その彼の公平な審美眼に、片岡だけが「不正」という不純物を抱えたまま、魔法のように高い評価を得ているという矛盾。稲垣の言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥で、カチリと音を立てて何かが嵌まった。(やっぱり、そうだったのか) 自分でも驚くほど冷めた声が、内側で響いた。それは、片岡を「クローバー会」に入れないと決めた天童よし……いや、谷田部さんの断固たる拒絶を肯定する、暗い納得感だった。もし、あの夜のオールドバーに片岡が座っていたら。私たちがクローバー駅近くのビルで共有していた、あの少し窮屈で、けれど清潔だった思い出の中に、この「淀み」が流れ込んでいたかもしれない。谷田部さんが言っていた「会の純度」という言葉が、不吉な予言のように脳裏をよぎる。 「……一応、幹事には伝えておくよ。でも、あくまで噂だからな」 私は曖昧に答えて、手元の資料に視線を落とした。片岡の笑顔の裏側にあるかもしれない計算や、大島課長の不可解な評価。それらが地震橋の新しいオフィスを、昨日よりも少しだけ冷ややかに見せている気がした。 「米屋の息子」を拒んだのは、単なる新参者への排他心ではなく、私たちが無意識に感じ取っていた「違和感」への自衛本能だったのかもしれない。 彼をクローバー会に招き入れなくて、本当によかった。私はそう確信しながら、片岡が書いたであろう歪んだ数字の並ぶ書類を、視界から外した。
カレンダーが最後の一枚になり、地震橋のオフィスにも、どこか浮き足立ったような、それでいて一年を締めくくるための切実な忙しさが漂い始めた頃。第三回「クローバー会」は、忘年会として開催されることになった。今回の幹事は、福生さんだ。彼女は、この界隈では名門として知られる神宮舎学院の出身で、開催場所に選ばれたのも、彼女の母校のお膝元である「神宮舎」の路地裏に佇む渋い居酒屋だった。「ここは学生時代から通っているんです。表通りは騒がしいけれど、一本入ればちゃんと美味しいお酒が出ますから」そう言って先頭を歩く彼女の背中には、自分のテリトリーを案内する者特有の、静かな自負が溢れていた。神宮舎の街並みは、新しいビルが立ち並ぶ地震橋とは違い、古くからの家並みと学生向けの安価な店、そして福生さんが選ぶような「本物」を知る大人の店が絶妙に混ざり合っている。引き戸を開けると、使い込まれたカウンターと、出汁の香りが混じった温かい空気が私たちを包み込んだ。「いらっしゃい。福生さん、お帰り」店主の短い挨拶に、彼女は「ただいまです」と小さく微笑む。そのやり取りだけで、ここが彼女にとって、単なる飲食店以上の場所であることが伝わってきた。「やっぱり、幹事が地元の人だと安心感が違いますね」羽鳥慎一こと大島課長が、冷えた手を擦り合わせながら、嬉しそうに腰を下ろした。「クローバー会」のメンバーだけで囲む、小さな座敷。注文も、福生さんが手際よく進めていく。お決まりのメニューではなく、その日の仕入れに合わせた「裏の品」が次々と運ばれてくる。「……よかったですね、やっぱりこのメンバーで」谷田部さんが、熱燗の徳利を傾けながら私に囁いた。天童よしみ似のその表情には、片岡君、「米屋の息子」の加入を断固として拒んだ時の、あの厳しい「純度」へのこだわりが、今は穏やかな満足感に変わって宿っている。私は、運ばれてきたばかりの白子のポン酢和えを口に運んだ。あの時、稲垣から聞いた片岡の不透明な残業申請や、大島課長からの不可解な高評価。そんな「外の世界」の濁った話は、この神宮舎の夜には持ち込まないのが暗黙の了解だった。「地震橋のビルに移ってから、なんだかみんな、少しずつ『数字』に追われるようになりましたよね」福生さんが、自分の母校の校章が彫られた記念品のキーホルダーを弄りながら、ふと零した。「でも、こうして集まると、あのクローバー駅の古いビルにいた頃の、もっと泥臭くて、でも真っ直ぐだった自分たちに戻れる気がするんです」外は本格的な冬の寒さが押し寄せている。けれど、福生さんが熟知しているこの店の一角だけは、かつての第二課が持っていた、あの「狭くて濃密な温度」が保たれていた。大島課長が、羽鳥さんそっくりの端正な顔を少し赤くして、私たちの昔話に耳を傾けている。その姿を見ながら、私は思う。たとえ、新しいオフィスで人間関係に「淀み」が混じり始めていたとしても。この「クローバー会」という小さな聖域だけは、福生さんの案内する路地裏の店のように、誰にも汚されない場所であってほしい、と。「次は、新年会ですね」誰かが言ったその言葉に、私たちは迷いなく頷いた。
神宮舎の居酒屋を出ると、十二月の夜気は思いのほか鋭く、酔った体に心地よかった。「……神宮舎公園、行ってみませんか」 誰かが、ふと言った。横須さんだったか、あるいは少し足元の覚束ない「羽鳥さん」こと大島課長だったか。普段の私たちなら、そのまま大人しく地下鉄に乗って帰路に着くはずだった。けれど、福生さんが案内してくれたあの路地裏の熱気が、私たちの背中を少しだけ大胆に押し出したのかもしれない。神宮舎公園公園。その言葉の響きに、私は一瞬、遠い記憶の扉を叩いた。「神宮舎公園……。最後に行ったのは、もう三十年近く前かな」 私が零した言葉に、天童よしみ……もとい、谷田部さんが「あら、私もそれくらいかも」と目を丸くした。三十年。生まれた子供が成人し、中堅社員になるほどの歳月だ。辿り着いた公園の入り口で、私たちは足を止めた。「……ここ、本当に神宮舎公園公園ですか?」 大島課長が、呆然とした声を上げた。私の記憶にある神宮舎公園公園は、もっとこう、生活の垢がこびりついたような場所だった。青いビニールシートや、どこからか流れてくるカラオケの音、将棋盤を囲む老人たちの野太い声。少しだけ近寄り難く、けれど剥き出しの人間臭さが漂っていた、あの混沌とした広場。 しかし、目の前に広がっていたのは、手入れの行き届いた芝生と、洗練されたカフェのテラス席が並ぶ、眩しいほどの「公園」だった。 「『じんしば』、でしたっけ。噂には聞いていましたけど、これほどとは……」 福生さんが、スマートフォンの画面をチェックしながら呟いた。整然とライトアップされた遊歩道を、私たちは黙って歩いた。三十年前、ここに漂っていたあの重たい空気は、どこへ消えてしまったのだろう。綺麗に舗装された道は歩きやすく、けれどどこか、自分の記憶という地図が役に立たない寂しさを感じさせた。 「綺麗になりましたね。まるで、私たちの新しいオフィスみたい」 谷田部さんのその言葉が、胸にちりと刺さった。効率的で、清潔で、誰にでも開かれている。それは素晴らしい変化のはずなのに、私たちはどうしても、あの手狭だった旧オフィスの、あるいは昔の神宮舎公園の「濁り」を、どこかで愛おしんでしまっている。 「……でも、こうして歩いているメンバーは変わっていない」 大島課長が、芝生を横切る風に目を細めて言った。「街が変わっても、私たちが『クローバー会』であることは変わらない。それでいいじゃないですか」 その言葉に、私たちは顔を見合わせた。三十年前、この場所で何をしていたかも思い出せないほど、私たちは遠くへ来てしまった。片岡君の不正疑惑や、組織の拡大、日々の数字のプレッシャー。そんな濁った現実を抱えながら、それでも私たちは今、この新しい公園に立っている。 「次、あそこのカフェでコーヒーでも飲んで帰りましょうか。三十年前には、絶対になかったやつ」 私の提案に、みんなが笑った。変わり果てた公園の中で、私たちの関係だけが、古びた琥珀のように変わらぬ温度を保っている。そのことが、冬の夜の冷たさの中で、妙に誇らしく感じられた。
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