大阪支店の話
大阪第二課の空気感が変わり始めたのは、間違いなくあの1月のことだった。 中途で入ってきた希邑は、誰もが知る業界最大手からの「鳴り物入り」だ。そんな彼を迎え入れたのが、私の直属の上司でもある三ケ山さんだった。 三ケ山さんは、一言で言えば「伊集院光」を少し小ぶりにしたような人だ。恰幅のいい体躯に、人当たりのいい笑顔。大阪のコテコテした空気感にこれほど馴染む人もいない。大手出身でどこか「よそ行き」の顔を崩さない希邑を、三ケ山さんは「まあ、ぼちぼち行こうや」と、その大きな背中で受け止めていた。 ところが4月、その緩やかな均衡に、鋭いカミソリのような風が吹き込んだ。 本社から新しい課長として、大島さんが赴任してきたのだ。シュッとした立ち姿に、非の打ち所のない清潔感。テレビで見かける羽鳥慎一アナを彷彿とさせるその佇まいは、雑然とした第二課のフロアで明らかに浮いていた。 最近、デスクに座っていると、背後から聞こえてくる会話の「音」が変わったことに気づく。 三ケ山さんの朗らかな笑い声と、それに合わせる希邑の少し遠慮がちな相槌。 「希邑くん、あそこの大手とはやり方が違うやろうけど、郷に入ればってやつよ」 大島課長の、理路整然とした低いトーン。 「希邑さん、前職のスキームをここに落とし込むなら、もっと効率化できるはずだ」 三ケ山さんは、相変わらず「まあまあ」と間に入ろうとするが、大島課長の「本社のロジック」と希邑の「大手のプライド」が共鳴し始めると、三ケ山さんの伊集院的な温かみが、どこか「古き良き遺物」のように見えてしまう瞬間がある。 希邑も、三ケ山さんには見せなかった「効率重視の顔」を大島課長の前では隠さなくなった。昨日まで三ケ山さんと串カツの話をしていたはずの希邑が、今は大島課長とタブレットを囲んで、スマートに数字を詰めている。 この微妙な変化が、私にとっては最高に面白い。 三ケ山さんの持つ「泥臭い包容力」と、大島課長の持つ「洗練された推進力」。その間で、希邑という優秀なパーツがどう組み込まれていくのか。 第二課は今、三ケ山さんの「ラジオのような安心感」と、大島課長の「朝のニュースのような緊張感」が混ざり合った、不思議なカクテル状態にある。 「……で、どう思う? 君は」 ふいに三ケ山さんが、少し困ったような、でもどこか楽しげな笑顔で私に振ってきた。隣では大島課長が、手元の資料を整えながら私の言葉を待っている。 「そうですね」と、私はコーヒーを一口啜る。 「どっちの味も捨てがたい、ってところでしょうか」
大阪第二課でのあの喧騒が嘘のように、第三課の空気はどこか「余所行き」の匂いがした。 私と希邑が揃ってこの部署に転属になったのは、単なる偶然か、あるいは会社なりの意図があったのか。どちらにせよ、私たちの新しい「主(あるじ)」となった深山課長は、これまでの上司たちとは明らかに毛色が違っていた。 親会社から出向してきたという深山さんは、常に完璧な折り目のついたスーツを纏い、柔らかな物腰を崩さない。三ケ山さんのような「浪速の包容力」とも、大島さんのような「本社の切れ味」とも違う、底の見えない静かな湖面のような人だ。 その「湖面」が、ある日ふわりと揺れた。 希邑が、ある複雑な案件に頭を抱えていた時のことだ。デスクで何度も溜息をつき、受話器を置く手も心なしか重い。そんな彼に、深山課長が音もなく歩み寄った。 「希邑くん、その件……かなり難航しているようだね」 深山さんの声は、春の微風のように穏やかだった。 「もし良ければ、私が代わりに対応してもいいかな? 君の負担を少しでも減らしたいんだ」 希邑は一瞬、戸惑ったような顔を見せた。上司が自ら泥を被ってくれるという申し出だ。断る理由などどこにもない。 「……ありがとうございます。助かります」 希邑はそう言って、資料を深山さんに委ねた。 だが、そこからが「日常」の皮を被った悲劇の始まりだった。 深山さんは、宣言通り鮮やかに、そして大胆に動き出した。 しかし、その手法は私らの想像を遥かに超えていた。彼はすべてのメールを、すべての書類を、**「担当:希邑」**の名で発信し始めたのだ。しかも、中身は深山さん独自の、親会社譲りの強気でドライなロジックが詰め込まれている。 「私の名前で、好き勝手にやってる……」 希邑が隣で呟く声が、日に日に低くなっていく。 深山さんは、希邑の仮面を被りながら、希邑が決して選ばないような言葉で、取引先や他部署を次々と「整理」していった。深山さん自身は、デスクで優雅にコーヒーを啜りながら、画面の向こうで火を放っている。 そして、火の手が上がるのに時間はかからなかった。 「希邑! どういうつもりだ、あの回答は!」 「希邑さん、話が違うじゃないですか」 鳴り響く電話。殺気立った他部署の人間が、次々と私らの島へやってくる。その視線の先にあるのは、困惑し、平謝りを繰り返す希邑の姿だ。 希邑の背後で、深山課長は相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。 「大変そうだね、希邑くん。でも、これも経験だよ」 その言葉は、一見すると励ましのようにも聞こえる。けれど、私の目には、深山さんが「希邑」という名のチェスの駒を動かして、自分は決して汚れない安全圏から戦場を眺めているようにしか見えなかった。 窓の外には、大阪の街が春の午後の光に溶けている。 「……三ケ山さんなら、笑い飛ばしてくれたんだろうな」 希邑がぼそりと零した言葉が、キーボードを叩く音に掻き消された。 第三課の空気は、さらに冷たく、そして鋭く、私たちの肌を刺し始めていた。
新年度の慌ただしさが少しだけ落ち着きを見せ始めた頃、大阪支店の静かなフロアに、新しい「風」を持ち込んだ男がいた。前職は旅行代理店だったという中途採用の片岡だ。実家が米屋だという噂がどこからともなく広まり、彼はいつの間にか、親しみを込めて「米屋の息子」と呼ばれるようになっていた。そんな彼が、持ち前の企画力を発揮して立ち上げたのが「歩くん会」という名のハイキングクラブだった。「山を歩いて、帰りに旨い酒を飲む。それだけですよ」 片岡は、旅行パンフレットを彷彿とさせる鮮やかな手作りのチラシを配りながら、屈託のない笑顔で触れ回っていた。かつて第二課で三ケ山さんの朗らかな笑い声に包まれていた私らにとって、片岡のその「健全な熱量」は、どこか眩しく、少しだけ気恥ずかしいものだった。 深山課長の冷徹なロジックに晒されている今の第三課において、片岡の提案は砂漠に現れたオアシスのように見えたのかもしれない。 私はといえば、週末は一人で本を読んだり、あてもなく街を歩いたりする方が性に合っている。だから、片岡の誘いには「また今度」と曖昧な返事をして、参加を見送っていた。 けれど、かつて同じ釜の飯を食った「クローバー会」のメンバーたちは違った。 横須や弥田部は 仕事の合間に、支給された登山靴の話や、次の週末のルートについて楽しそうに話し込んでいる。希邑は 深山課長に名前を「利用」され、疲弊しきっていた彼もまた、リフレッシュを求めてか、その輪に加わっていた。 月曜日の朝、彼らが少し日焼けした顔で出社してくるのを見るのは、不思議な気分だった。「昨日の生駒山、最後の下りできつかったけど、その後のビールが最高で……」 給湯室から聞こえてくるそんな会話が、かつての大阪支店が持っていた「緩やかな連帯感」を、少しずつ、けれど確実に再現しているようだった。 私は、彼らが共有している「昨日の景色」を知らない。同じオフィスで同じ時間を過ごしていても、月曜日の彼らと私の間には、目に見えない小さな境界線が引かれている。 それは寂しさというよりは、窓越しに遠くの山を眺めているような、静かな距離感だった。 「歩くん会」の活動報告を聞きながら、私は自分のデスクでキーボードを叩く。深山課長の無機質な指示が飛び交うこのフロアで、片岡が連れ出したメンバーたちが、少しずつ「第二課の頃の顔」を取り戻していく。 「米屋の息子」が蒔いた種は、私が参加しない場所で、密やかに、けれど着実に芽吹いているようだった。
深山課長が去った。希邑の名前を隠れ蓑にして現場に火を放ち、自分は安全圏でコーヒーを啜っていたあの男は、嵐が過ぎ去るのを待つまでもなく、ふわりと別の場所へ消えてしまった。親会社に戻ったのか、あるいは別の関連会社へ流れたのか。私たちには知る由もない。後味の悪い静寂が残った第三課に、入れ替わるようにして新しい「主」がやってきた。またしても、親会社からの出向組だ。新しい課長の名は、八田といった。初めてその顔を見たとき、私は不謹慎にもお笑いコンビ「ロザン」の宇治原史規を思い出した。けれど、テレビで見かけるあの知的な快活さは微塵もない。顔の輪郭が驚くほど細長く、顎のラインが鋭い。眼鏡の奥にある瞳は、獲物をじっと観察する肉食昆虫のそれだった。「カマキリ……」隣のデスクで、希邑が誰にも聞こえないような小声で呟いた。その声には、深山さんに振り回された末の深い警戒心が滲んでいた。八田課長は、着任の挨拶も必要最小限だった。余計な愛想を振りまくこともなく、ただ淡々と、しかし確実に周囲の空気を検分していく。その佇まいには、前任の深山さんが持っていた「優雅な無関心」とは違う、もっと湿り気を帯びた「観察者の冷たさ」があった。八田課長がデスクに座ると、第三課のフロアに妙な緊張感が走る。彼は仕事中、ほとんど席を立たない。けれど、キーボードを叩く指が止まるたび、その細長い顔がゆっくりと左右に動き、部下たちの動きを網羅していく。深山さんの場合は駒を動かして、結果だけを見る。八田さんの場合は駒が「どう動こうとしているか」を、その冷徹な眼差しで射抜いてくる。「……なんか、嫌な予感がしますね」昼休み、缶コーヒーを片手にした希邑が私に寄ってきた。「深山さんは『何をしでかすか分からない怖さ』でしたけど、今度の八田さんは『逃げ道を塞がれている怖さ』っていうか。あの顔、絶対に何か裏がありますよ」 確かに、八田課長の細い口元が時折見せる歪な微笑みは、およそ「親しみ」とは程遠いものだった。 「歩くん会」で賑わっていた片岡やクローバー会のメンバーたちも、八田課長の前ではどことなく口数が少なくなった。 かつて三ケ山さんが作り出した「ラジオのような安心感」や、大島さんが持ち込んだ「ニュース番組のような規律」は、今や遠い記憶になりつつある。今の第三課を支配しているのは、静まり返った理科室で、鋭利な解剖用メスを突きつけられているような、そんな息苦しさだ。 八田課長が手元の資料をめくる、紙の擦れる音だけがフロアに響く。 「……ああ、それから希邑くん」 八田課長が、ゆっくりと首をこちらに向けた。宇治原さん似の、けれど血の通わない瞳が希邑を捉える。 「前任の深山君から聞いたよ。君は、なかなか『特殊な立ち回り』が得意なようだね」 その言葉の裏に張り付いた、粘り気のある悪意のようなもの。私たちの日常は、また新しい、そしてこれまで以上に厄介な「色」に染まろうとしていた。
冷徹にしたような八田課長の顔。そのカマキリのような細長い指が、デスクの上で規則正しく音を立てている。「……久末君のことだが」 八田課長は、眼鏡の奥の鋭い瞳で私を射抜いた。その表情には、一切の感情が削ぎ落とされている。「彼に余計な意見はしないでくれたまえ。彼はこれから、この会社で上のステージへと駆け上がっていく立場の人間だ。君たちが口を出すような存在じゃないんだよ」 それは、アドバイスというよりは、冷ややかな「警告」だった。久末が有能だから守るのではない。最初から「出世させる」というレールが、親会社出身の八田課長の手によって敷かれている。その事実を突きつけられた瞬間、私の背筋に嫌な汗が流れた。それ以来、職場の空気は目に見えて澱み始めた。自分が「不可侵の存在」であることを悟った久末は、まるで重力から解放されたかのように、傍若無人に振る舞い始めた。「それ、マニュアルの42ページと矛盾してませんか?私のやり方でやらせてもらいますよ」 希邑が丁寧に教えようとしても、久末はあの有吉そっくりの薄笑いを浮かべて一蹴する。実行力が伴わないまま、理屈だけを武器にして周囲をなぎ倒していく。八田課長という最強の「盾」を背に、彼は職場の秩序を静かに、けれど確実に壊し始めていた。かつての第二課にあった、三ケ山さんのような温かな冗談はもう聞こえない。今の第三課を支配しているのは、八田課長の冷徹な論理と、守られた久末が撒き散らす不遜な空気だ。「……やってられませんね」 給湯室で会った希邑が、力なく笑った。かつて深山前課長に名前を利用され、今度は八田課長と久末という「特権階級」の振る舞いを見せつけられている。希邑の肩は、心なしか以前より薄くなったように見えた。私は、席に戻る途中で久末のデスクを横切った。彼はふんぞり返って画面を眺め、隣の先輩社員が困り果てているのも気づかないふりをしている。窓の外、地震橋あたりのビル群が夕陽に照らされて光っている。美しいはずのその景色も、今の私には、どこか作り物の書き割りのようにしか見えなかった。
第三課の空気は、もはや澱んでいるというレベルを超え、呼吸をするだけで肺の奥がちりちりと焼けるような、そんな不快な熱を帯び始めていた。きっかけは、八田課長の極めて個人的な「嗜好」だった。「……河之内君、今の説明、論理が飛躍しすぎていないかな」 宇治原史規を冷たくしたようなあの顔が、デスク越しに河之内さんをじっと見据える。河之内さんは、私らより少し年上の、実直だけが取り柄のような先輩だ。八田課長はどうやら、その「実直ゆえの不器用さ」が、生理的に受け付けないらしい。一度ターゲットが決まると、八田課長の攻撃は執拗だった。怒鳴るわけではない。ただ、細長い指で机を叩きながら、重箱の隅をつつくような「論理の修正」を何時間も強いるのだ。それは指導という名の、静かな解体作業だった。さらに最悪なのは、その光景を特等席で眺めていた久末だった。八田課長から「将来の幹部候補」とお墨付きをもらい、不可侵の聖域を手に入れた彼は、まさに「虎の威を借る狐」そのものだった。「河之内さん、課長の言う通りですよ。私も横で聞いてて、今の数字の根拠、全然見えなかったですもん」 有吉弘行に似たあの顔に、いやらしい薄笑いを浮かべて、久末が横から口を出す。本来なら、転職してきたばかりの久末にとって、河之内さんは仕事を教わるべき先輩のはずだ。だが、今のこの部署において、八田課長の寵愛を受ける久末は、実質的な「副官」のような顔をしてふんぞり返っている。「いや、でも久末君、この現場の状況だと……」 「現場、現場って。マニュアル外の例外を認めてたら、組織は回りませんよ。ねえ、課長?」 久末はそう言って、八田課長に媚びるような視線を送る。八田課長は満足そうに口角を歪め、河之内さんをさらに追い詰めていく。かつて、旅行代理店出身の片岡が「歩くん会」を立ち上げ、私たちが少しだけ「第二課」の頃の温度を取り戻しかけたあの空気は、いまや見る影もない。河之内さんが八田課長に詰められている間、フロアは死んだように静まり返る。希邑は顔を伏せ、激しくキーボードを叩いて自分の世界に閉じこもっている。私もまた、モニターの数字を見つめるふりをして、耳を塞ぎたくなるような悪意をやり過ごすことしかできない。八田課長、 獲物をじわじわといたぶるカマキリ。久末、 そのおこぼれを貰いながら、安全圏から石を投げる狐。二人の姿が重なると、この第三課という場所が、まるで血の通わない実験室のように思えてくる。「……あ、河之内さん。その資料、私が『修正』しておきましょうか? 課長が納得する形に」 久末の嘲笑を含んだ声が響く。河之内さんの背中が、また少し小さくなった。窓の外では、地震橋を渡るビジネスマンたちが忙しなく動いている。その日常の風景が、この閉ざされた第三課の歪な人間模様とあまりにかけ離れていて、私は冷めたコーヒーを飲み込むことさえ忘れていた。
「……私たちは、大島さんを上げるべきだと思うんです」 ある日の仕事帰り、希邑が小さな声で言った。場所は、クローバー駅近くのいつもの居酒屋。集まったのは、私や希邑、そして「歩くん会」の片岡といった、外の世界からこの会社に流れ着いた「転職組」の面々だ。「親会社から来る連中に、これ以上この場所を荒らされてたまるか、っていうか。大島さんなら、私たちの痛みがわかるはずだ」 誰かがそう言うと、皆が深く頷いた。それは派手なクーデターではなかった。ただ、日常のルーチンワークの中で、誰に報告を上げ、誰の指示を最優先し、誰のために最高のパフォーマンスを出すか。その比重を、音を立てずに大島さんへと傾けていく。私たちは、自分たちの「居場所」を守るために、同じ越境者である大島さんを旗印に掲げたのだ。そんな私たちの動きを、大島さんは鋭敏に感じ取っていたようだった。数日後の昼下がり。給湯室で一人、コーヒーを淹れていると、大島さんがふらりと入ってきた。「……皆さんには、苦労をかけているね」 大島さんは、窓の外を流れる人の群れを見つめながら、独り言のように呟いた。その横顔は、テレビで見かける爽やかなキャスターのそれよりも、ずっと重みのある、一人の「生き残り」の顔をしていた。「私が上に行くときは、必ず君たちも一緒に引き上げる。今のこの歪な空気を、いつまでも続けさせるつもりはないから」 その言葉に、過度な熱量はなかった。けれど、八田課長のロジックや久末の嘲笑よりも、ずっと深く私の胸に刺さった。それからの第三課は、奇妙な二重構造になった。表面上は、八田課長の冷徹な支配と久末の傍若無人な振る舞いが続いている。河之内さんへの風当たりも相変わらずだ。けれど、その水面下では、私たちの結束は岩のように固まっていた。大島さんが必要とする数字は、私たちが死守する。大島さんが会議で発言する武器となる資料は、希邑が完璧に仕上げる。八田課長が気づかないところで、私たちは大島さんの「実績」という名の城を、少しずつ、けれど着実に積み上げていった。「お疲れ様です、大島課長」 夕暮れのオフィスで、私が大島さんに資料を手渡すとき、一瞬だけ視線が交差する。そこには、組織のルールを超えた、共犯者同士のような微かな熱が宿っていた。親会社の看板を持たない私たちが、この巨大なビルの中で生き残るための、これが私たちなりの「静かな戦争」だった。
大島さんが、ついに支店長へと昇り詰めた。「羽鳥慎一」を思わせるあのシュッとした佇まいに、今は支店長という重厚な肩書きが加わっている。倒産した会社からの中途採用。そんなバックボーンを持つ彼が、親会社出身の「純血種」たちがひしめくこの組織でトップに立ったことは、私たち転職組にとって、暗闇に灯った一筋の光のような出来事だった。けれど、組織という場所はどこまでも冷ややかだ。大島さんの同期にあたる課長連中は、面白かろうはずがない。自分たちを追い抜いていった「外様」の昇進を、彼らはあからさまな無視という形で突き放した。会議が終われば大島さんを置いて連れ立って昼食に行き、廊下ですれ違っても、事務的な会釈すら投げようとしない。新しくなった支店長室の中で、大島さんは、かつてないほどの孤独の中にいた。聖域ではない、いつもの場所へ 「……行きましょうか」 ある日の定時後、希邑が私と片岡に目配せをした。片岡、「米屋の息子」は、旅行代理店仕込みのフットワークの軽さで、すでに大島さんのスケジュールを「確保」していた。 私たちが大島さんを連れ出したのは、北新地の高級クラブでも、地震橋の料亭でもない。駅前の喧騒に紛れた、ガード下の古びた立ち飲み屋だった。 「支店長をこんなところに誘うなんて、私らくらいでしょうね」 希邑が、串カツのソースの匂いが立ち込める店内で、少しいたずらっぽく笑った。 ネクタイを緩める「羽鳥さん」 仕事終わりの労働者たちで溢れ返る店内で、大島さんの仕立ての良いスーツは明らかに浮いていた。けれど、彼がビールジョッキを片手に、慣れない手つきで立ち飲み用のカウンターに肘をついたとき、その「浮き」は不思議な親密さに変わった。 「……助かるよ。あの部屋に一人でいると、自分がどこの会社の人間なのか、分からなくなる時があるんだ」 大島さんは、苦笑いしながらネクタイの結び目を少しだけ緩めた。テレビの向こうの清潔感あふれるアナウンサーが、ふと見せた「戦士の休息」のような顔だった。 片岡が、絶妙なタイミングで追加の土手焼きを注文する。「支店長になっても、私らは変わらず『歩くん会』に誘いますからね。山の上では肩書きなんて関係ないですし」 「ああ、頼むよ。……というか、山の方がまだ空気が綺麗そうだ」 大島さんのその言葉に、私たちは小さく笑った。八田課長や久末、そして彼を冷遇する同期たちの視線に晒され続ける日々。その張り詰めた糸が、安酒の酔いとともに、少しずつ解けていくのが分かった。 立ち飲み屋の狭いカウンター。支店長と、その部下。あるいは、この巨大な組織という荒野を、別の場所からやってきて共に歩む「流れ者」たち。 「約束通り、君たちのことは私が守る。……いや、守らせてほしい。君たちがいたから、私はここにいられるんだから」 大島さんがジョッキを掲げた。希邑が、片岡が、そして私が、それに続く。 背後を通り過ぎる電車の轟音に掻き消されそうな、小さな乾杯。けれど、それはどんな豪華な就任パーティーの祝辞よりも、私たちの胸に深く、熱く響いた。 店を出ると、大阪の夜風は少しだけ湿り気を帯びていた。大島支店長の背中は、駅の改札へと消えていく。その足取りは、店に入る前よりもずっと力強く、確かなものに見えた。 明日になれば、また「純血種」たちとの静かな闘争が始まる。けれど、私たちにはこの夜の、ソースとビールの匂いにまみれた「確信」がある。 私たちの日常は、まだ終わらない。これからが、本当の始まりなのだ。
大阪第二課でのあの喧騒が嘘のように、第三課の空気はどこか「余所行き」の匂いがした。 私と希邑が揃ってこの部署に転属になったのは、単なる偶然か、あるいは会社なりの意図があったのか。どちらにせよ、私たちの新しい「主(あるじ)」となった深山課長は、これまでの上司たちとは明らかに毛色が違っていた。 親会社から出向してきたという深山さんは、常に完璧な折り目のついたスーツを纏い、柔らかな物腰を崩さない。三ケ山さんのような「浪速の包容力」とも、大島さんのような「本社の切れ味」とも違う、底の見えない静かな湖面のような人だ。 その「湖面」が、ある日ふわりと揺れた。 希邑が、ある複雑な案件に頭を抱えていた時のことだ。デスクで何度も溜息をつき、受話器を置く手も心なしか重い。そんな彼に、深山課長が音もなく歩み寄った。 「希邑くん、その件……かなり難航しているようだね」 深山さんの声は、春の微風のように穏やかだった。 「もし良ければ、私が代わりに対応してもいいかな? 君の負担を少しでも減らしたいんだ」 希邑は一瞬、戸惑ったような顔を見せた。上司が自ら泥を被ってくれるという申し出だ。断る理由などどこにもない。 「……ありがとうございます。助かります」 希邑はそう言って、資料を深山さんに委ねた。 だが、そこからが「日常」の皮を被った悲劇の始まりだった。 深山さんは、宣言通り鮮やかに、そして大胆に動き出した。 しかし、その手法は私らの想像を遥かに超えていた。彼はすべてのメールを、すべての書類を、**「担当:希邑」**の名で発信し始めたのだ。しかも、中身は深山さん独自の、親会社譲りの強気でドライなロジックが詰め込まれている。 「私の名前で、好き勝手にやってる……」 希邑が隣で呟く声が、日に日に低くなっていく。 深山さんは、希邑の仮面を被りながら、希邑が決して選ばないような言葉で、取引先や他部署を次々と「整理」していった。深山さん自身は、デスクで優雅にコーヒーを啜りながら、画面の向こうで火を放っている。 そして、火の手が上がるのに時間はかからなかった。 「希邑! どういうつもりだ、あの回答は!」 「希邑さん、話が違うじゃないですか」 鳴り響く電話。殺気立った他部署の人間が、次々と私らの島へやってくる。その視線の先にあるのは、困惑し、平謝りを繰り返す希邑の姿だ。 希邑の背後で、深山課長は相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。 「大変そうだね、希邑くん。でも、これも経験だよ」 その言葉は、一見すると励ましのようにも聞こえる。けれど、私の目には、深山さんが「希邑」という名のチェスの駒を動かして、自分は決して汚れない安全圏から戦場を眺めているようにしか見えなかった。 窓の外には、大阪の街が春の午後の光に溶けている。 「……三ケ山さんなら、笑い飛ばしてくれたんだろうな」 希邑がぼそりと零した言葉が、キーボードを叩く音に掻き消された。 第三課の空気は、さらに冷たく、そして鋭く、私たちの肌を刺し始めていた。
新年度の慌ただしさが少しだけ落ち着きを見せ始めた頃、大阪支店の静かなフロアに、新しい「風」を持ち込んだ男がいた。前職は旅行代理店だったという中途採用の片岡だ。実家が米屋だという噂がどこからともなく広まり、彼はいつの間にか、親しみを込めて「米屋の息子」と呼ばれるようになっていた。そんな彼が、持ち前の企画力を発揮して立ち上げたのが「歩くん会」という名のハイキングクラブだった。「山を歩いて、帰りに旨い酒を飲む。それだけですよ」 片岡は、旅行パンフレットを彷彿とさせる鮮やかな手作りのチラシを配りながら、屈託のない笑顔で触れ回っていた。かつて第二課で三ケ山さんの朗らかな笑い声に包まれていた私らにとって、片岡のその「健全な熱量」は、どこか眩しく、少しだけ気恥ずかしいものだった。 深山課長の冷徹なロジックに晒されている今の第三課において、片岡の提案は砂漠に現れたオアシスのように見えたのかもしれない。 私はといえば、週末は一人で本を読んだり、あてもなく街を歩いたりする方が性に合っている。だから、片岡の誘いには「また今度」と曖昧な返事をして、参加を見送っていた。 けれど、かつて同じ釜の飯を食った「クローバー会」のメンバーたちは違った。 横須や弥田部は 仕事の合間に、支給された登山靴の話や、次の週末のルートについて楽しそうに話し込んでいる。希邑は 深山課長に名前を「利用」され、疲弊しきっていた彼もまた、リフレッシュを求めてか、その輪に加わっていた。 月曜日の朝、彼らが少し日焼けした顔で出社してくるのを見るのは、不思議な気分だった。「昨日の生駒山、最後の下りできつかったけど、その後のビールが最高で……」 給湯室から聞こえてくるそんな会話が、かつての大阪支店が持っていた「緩やかな連帯感」を、少しずつ、けれど確実に再現しているようだった。 私は、彼らが共有している「昨日の景色」を知らない。同じオフィスで同じ時間を過ごしていても、月曜日の彼らと私の間には、目に見えない小さな境界線が引かれている。 それは寂しさというよりは、窓越しに遠くの山を眺めているような、静かな距離感だった。 「歩くん会」の活動報告を聞きながら、私は自分のデスクでキーボードを叩く。深山課長の無機質な指示が飛び交うこのフロアで、片岡が連れ出したメンバーたちが、少しずつ「第二課の頃の顔」を取り戻していく。 「米屋の息子」が蒔いた種は、私が参加しない場所で、密やかに、けれど着実に芽吹いているようだった。
深山課長が去った。希邑の名前を隠れ蓑にして現場に火を放ち、自分は安全圏でコーヒーを啜っていたあの男は、嵐が過ぎ去るのを待つまでもなく、ふわりと別の場所へ消えてしまった。親会社に戻ったのか、あるいは別の関連会社へ流れたのか。私たちには知る由もない。後味の悪い静寂が残った第三課に、入れ替わるようにして新しい「主」がやってきた。またしても、親会社からの出向組だ。新しい課長の名は、八田といった。初めてその顔を見たとき、私は不謹慎にもお笑いコンビ「ロザン」の宇治原史規を思い出した。けれど、テレビで見かけるあの知的な快活さは微塵もない。顔の輪郭が驚くほど細長く、顎のラインが鋭い。眼鏡の奥にある瞳は、獲物をじっと観察する肉食昆虫のそれだった。「カマキリ……」隣のデスクで、希邑が誰にも聞こえないような小声で呟いた。その声には、深山さんに振り回された末の深い警戒心が滲んでいた。八田課長は、着任の挨拶も必要最小限だった。余計な愛想を振りまくこともなく、ただ淡々と、しかし確実に周囲の空気を検分していく。その佇まいには、前任の深山さんが持っていた「優雅な無関心」とは違う、もっと湿り気を帯びた「観察者の冷たさ」があった。八田課長がデスクに座ると、第三課のフロアに妙な緊張感が走る。彼は仕事中、ほとんど席を立たない。けれど、キーボードを叩く指が止まるたび、その細長い顔がゆっくりと左右に動き、部下たちの動きを網羅していく。深山さんの場合は駒を動かして、結果だけを見る。八田さんの場合は駒が「どう動こうとしているか」を、その冷徹な眼差しで射抜いてくる。「……なんか、嫌な予感がしますね」昼休み、缶コーヒーを片手にした希邑が私に寄ってきた。「深山さんは『何をしでかすか分からない怖さ』でしたけど、今度の八田さんは『逃げ道を塞がれている怖さ』っていうか。あの顔、絶対に何か裏がありますよ」 確かに、八田課長の細い口元が時折見せる歪な微笑みは、およそ「親しみ」とは程遠いものだった。 「歩くん会」で賑わっていた片岡やクローバー会のメンバーたちも、八田課長の前ではどことなく口数が少なくなった。 かつて三ケ山さんが作り出した「ラジオのような安心感」や、大島さんが持ち込んだ「ニュース番組のような規律」は、今や遠い記憶になりつつある。今の第三課を支配しているのは、静まり返った理科室で、鋭利な解剖用メスを突きつけられているような、そんな息苦しさだ。 八田課長が手元の資料をめくる、紙の擦れる音だけがフロアに響く。 「……ああ、それから希邑くん」 八田課長が、ゆっくりと首をこちらに向けた。宇治原さん似の、けれど血の通わない瞳が希邑を捉える。 「前任の深山君から聞いたよ。君は、なかなか『特殊な立ち回り』が得意なようだね」 その言葉の裏に張り付いた、粘り気のある悪意のようなもの。私たちの日常は、また新しい、そしてこれまで以上に厄介な「色」に染まろうとしていた。
冷徹にしたような八田課長の顔。そのカマキリのような細長い指が、デスクの上で規則正しく音を立てている。「……久末君のことだが」 八田課長は、眼鏡の奥の鋭い瞳で私を射抜いた。その表情には、一切の感情が削ぎ落とされている。「彼に余計な意見はしないでくれたまえ。彼はこれから、この会社で上のステージへと駆け上がっていく立場の人間だ。君たちが口を出すような存在じゃないんだよ」 それは、アドバイスというよりは、冷ややかな「警告」だった。久末が有能だから守るのではない。最初から「出世させる」というレールが、親会社出身の八田課長の手によって敷かれている。その事実を突きつけられた瞬間、私の背筋に嫌な汗が流れた。それ以来、職場の空気は目に見えて澱み始めた。自分が「不可侵の存在」であることを悟った久末は、まるで重力から解放されたかのように、傍若無人に振る舞い始めた。「それ、マニュアルの42ページと矛盾してませんか?私のやり方でやらせてもらいますよ」 希邑が丁寧に教えようとしても、久末はあの有吉そっくりの薄笑いを浮かべて一蹴する。実行力が伴わないまま、理屈だけを武器にして周囲をなぎ倒していく。八田課長という最強の「盾」を背に、彼は職場の秩序を静かに、けれど確実に壊し始めていた。かつての第二課にあった、三ケ山さんのような温かな冗談はもう聞こえない。今の第三課を支配しているのは、八田課長の冷徹な論理と、守られた久末が撒き散らす不遜な空気だ。「……やってられませんね」 給湯室で会った希邑が、力なく笑った。かつて深山前課長に名前を利用され、今度は八田課長と久末という「特権階級」の振る舞いを見せつけられている。希邑の肩は、心なしか以前より薄くなったように見えた。私は、席に戻る途中で久末のデスクを横切った。彼はふんぞり返って画面を眺め、隣の先輩社員が困り果てているのも気づかないふりをしている。窓の外、地震橋あたりのビル群が夕陽に照らされて光っている。美しいはずのその景色も、今の私には、どこか作り物の書き割りのようにしか見えなかった。
第三課の空気は、もはや澱んでいるというレベルを超え、呼吸をするだけで肺の奥がちりちりと焼けるような、そんな不快な熱を帯び始めていた。きっかけは、八田課長の極めて個人的な「嗜好」だった。「……河之内君、今の説明、論理が飛躍しすぎていないかな」 宇治原史規を冷たくしたようなあの顔が、デスク越しに河之内さんをじっと見据える。河之内さんは、私らより少し年上の、実直だけが取り柄のような先輩だ。八田課長はどうやら、その「実直ゆえの不器用さ」が、生理的に受け付けないらしい。一度ターゲットが決まると、八田課長の攻撃は執拗だった。怒鳴るわけではない。ただ、細長い指で机を叩きながら、重箱の隅をつつくような「論理の修正」を何時間も強いるのだ。それは指導という名の、静かな解体作業だった。さらに最悪なのは、その光景を特等席で眺めていた久末だった。八田課長から「将来の幹部候補」とお墨付きをもらい、不可侵の聖域を手に入れた彼は、まさに「虎の威を借る狐」そのものだった。「河之内さん、課長の言う通りですよ。私も横で聞いてて、今の数字の根拠、全然見えなかったですもん」 有吉弘行に似たあの顔に、いやらしい薄笑いを浮かべて、久末が横から口を出す。本来なら、転職してきたばかりの久末にとって、河之内さんは仕事を教わるべき先輩のはずだ。だが、今のこの部署において、八田課長の寵愛を受ける久末は、実質的な「副官」のような顔をしてふんぞり返っている。「いや、でも久末君、この現場の状況だと……」 「現場、現場って。マニュアル外の例外を認めてたら、組織は回りませんよ。ねえ、課長?」 久末はそう言って、八田課長に媚びるような視線を送る。八田課長は満足そうに口角を歪め、河之内さんをさらに追い詰めていく。かつて、旅行代理店出身の片岡が「歩くん会」を立ち上げ、私たちが少しだけ「第二課」の頃の温度を取り戻しかけたあの空気は、いまや見る影もない。河之内さんが八田課長に詰められている間、フロアは死んだように静まり返る。希邑は顔を伏せ、激しくキーボードを叩いて自分の世界に閉じこもっている。私もまた、モニターの数字を見つめるふりをして、耳を塞ぎたくなるような悪意をやり過ごすことしかできない。八田課長、 獲物をじわじわといたぶるカマキリ。久末、 そのおこぼれを貰いながら、安全圏から石を投げる狐。二人の姿が重なると、この第三課という場所が、まるで血の通わない実験室のように思えてくる。「……あ、河之内さん。その資料、私が『修正』しておきましょうか? 課長が納得する形に」 久末の嘲笑を含んだ声が響く。河之内さんの背中が、また少し小さくなった。窓の外では、地震橋を渡るビジネスマンたちが忙しなく動いている。その日常の風景が、この閉ざされた第三課の歪な人間模様とあまりにかけ離れていて、私は冷めたコーヒーを飲み込むことさえ忘れていた。
「……私たちは、大島さんを上げるべきだと思うんです」 ある日の仕事帰り、希邑が小さな声で言った。場所は、クローバー駅近くのいつもの居酒屋。集まったのは、私や希邑、そして「歩くん会」の片岡といった、外の世界からこの会社に流れ着いた「転職組」の面々だ。「親会社から来る連中に、これ以上この場所を荒らされてたまるか、っていうか。大島さんなら、私たちの痛みがわかるはずだ」 誰かがそう言うと、皆が深く頷いた。それは派手なクーデターではなかった。ただ、日常のルーチンワークの中で、誰に報告を上げ、誰の指示を最優先し、誰のために最高のパフォーマンスを出すか。その比重を、音を立てずに大島さんへと傾けていく。私たちは、自分たちの「居場所」を守るために、同じ越境者である大島さんを旗印に掲げたのだ。そんな私たちの動きを、大島さんは鋭敏に感じ取っていたようだった。数日後の昼下がり。給湯室で一人、コーヒーを淹れていると、大島さんがふらりと入ってきた。「……皆さんには、苦労をかけているね」 大島さんは、窓の外を流れる人の群れを見つめながら、独り言のように呟いた。その横顔は、テレビで見かける爽やかなキャスターのそれよりも、ずっと重みのある、一人の「生き残り」の顔をしていた。「私が上に行くときは、必ず君たちも一緒に引き上げる。今のこの歪な空気を、いつまでも続けさせるつもりはないから」 その言葉に、過度な熱量はなかった。けれど、八田課長のロジックや久末の嘲笑よりも、ずっと深く私の胸に刺さった。それからの第三課は、奇妙な二重構造になった。表面上は、八田課長の冷徹な支配と久末の傍若無人な振る舞いが続いている。河之内さんへの風当たりも相変わらずだ。けれど、その水面下では、私たちの結束は岩のように固まっていた。大島さんが必要とする数字は、私たちが死守する。大島さんが会議で発言する武器となる資料は、希邑が完璧に仕上げる。八田課長が気づかないところで、私たちは大島さんの「実績」という名の城を、少しずつ、けれど着実に積み上げていった。「お疲れ様です、大島課長」 夕暮れのオフィスで、私が大島さんに資料を手渡すとき、一瞬だけ視線が交差する。そこには、組織のルールを超えた、共犯者同士のような微かな熱が宿っていた。親会社の看板を持たない私たちが、この巨大なビルの中で生き残るための、これが私たちなりの「静かな戦争」だった。
大島さんが、ついに支店長へと昇り詰めた。「羽鳥慎一」を思わせるあのシュッとした佇まいに、今は支店長という重厚な肩書きが加わっている。倒産した会社からの中途採用。そんなバックボーンを持つ彼が、親会社出身の「純血種」たちがひしめくこの組織でトップに立ったことは、私たち転職組にとって、暗闇に灯った一筋の光のような出来事だった。けれど、組織という場所はどこまでも冷ややかだ。大島さんの同期にあたる課長連中は、面白かろうはずがない。自分たちを追い抜いていった「外様」の昇進を、彼らはあからさまな無視という形で突き放した。会議が終われば大島さんを置いて連れ立って昼食に行き、廊下ですれ違っても、事務的な会釈すら投げようとしない。新しくなった支店長室の中で、大島さんは、かつてないほどの孤独の中にいた。聖域ではない、いつもの場所へ 「……行きましょうか」 ある日の定時後、希邑が私と片岡に目配せをした。片岡、「米屋の息子」は、旅行代理店仕込みのフットワークの軽さで、すでに大島さんのスケジュールを「確保」していた。 私たちが大島さんを連れ出したのは、北新地の高級クラブでも、地震橋の料亭でもない。駅前の喧騒に紛れた、ガード下の古びた立ち飲み屋だった。 「支店長をこんなところに誘うなんて、私らくらいでしょうね」 希邑が、串カツのソースの匂いが立ち込める店内で、少しいたずらっぽく笑った。 ネクタイを緩める「羽鳥さん」 仕事終わりの労働者たちで溢れ返る店内で、大島さんの仕立ての良いスーツは明らかに浮いていた。けれど、彼がビールジョッキを片手に、慣れない手つきで立ち飲み用のカウンターに肘をついたとき、その「浮き」は不思議な親密さに変わった。 「……助かるよ。あの部屋に一人でいると、自分がどこの会社の人間なのか、分からなくなる時があるんだ」 大島さんは、苦笑いしながらネクタイの結び目を少しだけ緩めた。テレビの向こうの清潔感あふれるアナウンサーが、ふと見せた「戦士の休息」のような顔だった。 片岡が、絶妙なタイミングで追加の土手焼きを注文する。「支店長になっても、私らは変わらず『歩くん会』に誘いますからね。山の上では肩書きなんて関係ないですし」 「ああ、頼むよ。……というか、山の方がまだ空気が綺麗そうだ」 大島さんのその言葉に、私たちは小さく笑った。八田課長や久末、そして彼を冷遇する同期たちの視線に晒され続ける日々。その張り詰めた糸が、安酒の酔いとともに、少しずつ解けていくのが分かった。 立ち飲み屋の狭いカウンター。支店長と、その部下。あるいは、この巨大な組織という荒野を、別の場所からやってきて共に歩む「流れ者」たち。 「約束通り、君たちのことは私が守る。……いや、守らせてほしい。君たちがいたから、私はここにいられるんだから」 大島さんがジョッキを掲げた。希邑が、片岡が、そして私が、それに続く。 背後を通り過ぎる電車の轟音に掻き消されそうな、小さな乾杯。けれど、それはどんな豪華な就任パーティーの祝辞よりも、私たちの胸に深く、熱く響いた。 店を出ると、大阪の夜風は少しだけ湿り気を帯びていた。大島支店長の背中は、駅の改札へと消えていく。その足取りは、店に入る前よりもずっと力強く、確かなものに見えた。 明日になれば、また「純血種」たちとの静かな闘争が始まる。けれど、私たちにはこの夜の、ソースとビールの匂いにまみれた「確信」がある。 私たちの日常は、まだ終わらない。これからが、本当の始まりなのだ。
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