オールスターゲーム
1971年7月17日。あの日の夏の熱気と、テレビのブラウン管から放たれる光の残像は、今でも鮮明にぼくの記憶に焼き付いている。西宮球場。プロ野球オールスターゲーム。ぼくは、家族が皆出払った後の、やけに静かなリビングで、たった一人、テレビの前に座り込んでいた。手元には冷えすぎた麦茶。しかし、そんな周りの静寂を打ち破るかのように、画面の中では熱狂が渦巻いていた。江夏豊。ぼくが心底惚れ込んでいる、阪神タイガースのエースだ。その江夏が、信じられないような快投を続けていた。オールスターという夢の舞台で、パ・リーグの強打者たちを相手に、一人、また一人と、三振の山を築き上げている。息をするのも忘れるほどの緊張感だった。「これは、とんでもないことが起きているんじゃないか?」全身の毛穴が開くような興奮の中で、ぼくは江夏の投球フォームの一つ一つを食い入るように見つめていた。4人目、5人目……。テレビのアナウンサーの声が、少しずつ興奮で上ずり始める。まさにその時だった。ジリリリリ……! けたたましい、夏の午後の電話のベルが、ぼくの集中力を一瞬にして引き裂いた。「えっ」 画面から目を離すのが惜しい。しかし、鳴り続けるベルに、仕方なく、受話器を手に取った。「もしもし」 画面に釘付けになったまま、短く、不機嫌にならないよう気をつけながら返事をした。その瞬間、受話器の向こうから、ぼくの鼓動をさらに早くさせる声が響いた。「オールスターゲーム観てる?」 きみだった。不意打ちだった。このタイミングで、まさかきみから電話がかかってくるなんて。「観てる」 ぼくは、まだ視線をテレビに向けたまま、熱に浮かされたように答えた。江夏が、次の打者に投じた渾身の一球が、空を斬る。ストライクだ。すると、きみは少しだけ間を置いて、まるで探りを入れるみたいに、言った。「島津くん、阪神タイガースファンだったわね?」 ぼくは、その問いに少し戸惑いを覚えた。きみとは、学校で隣の席になったことはあったけれど、そんな個人的な趣味の話はしたことがなかったはずだ。「そうだけど……。それがどうかした?」 ぼくが問い返す、その声にかぶせるように、テレビ画面の中で、パ・リーグの6番目の打者が、空を切るバットと共に崩れ落ちた。三振! ぼくは思わず小さく「よっしゃ」と声を上げた。そのぼくの歓声を、きみは受話器の向こうで、静かに聞いていたようだ。そして、きみは、今まで知らなかった秘密を打ち明けるみたいに、囁いた。「じつは私も……タイガースファンなの」 ぼくは、一瞬、頭の中が真っ白になった。「え……?」 画面では、江夏が次の打者を迎えようとしていた。しかし、それ以上に、受話器の向こうのきみの言葉が、ぼくの思考を支配した。きみと、タイガース。きみと、ぼく。その二つの点が、球場という接点によって、突然結びついた気がした。「そうなんだ……」 ぼくは、ただそれだけを絞り出すのが精一杯だった。その時、初めて、ぼくはテレビの画面から、受話器を握る自分の手へと視線を移した。そして、受話器の向こうの、きみの、少しだけ弾んだような息遣いを感じた。ああ、この夏、この瞬間、たった九つの三振が、ぼくと、きみとの間に、ささやかだけど、たしかな、新しい線を引いたのだ。
「じつは私も……タイガースファンなの」 受話器の向こうから聞こえる、きみの、少しばかり遠慮がちだけど、どこか嬉しそうな声。ぼくは、その一言で、今しがたまでテレビに集中していた意識が、完全にきみの方へと傾くのを感じた。「そうなんだ……」 絞り出した言葉は、驚きと、戸惑いと、そして、どうしようもない高揚感で、なんだか間抜けな響きだったかもしれない。ぼくは慌ててテレビの画面に目を戻した。次に打席に入るのは、阪急ブレーブスの阪本敏三選手だ。パ・リーグ屈指の巧打者だ。そして、江夏は既に6連続奪三振。この打者を仕留めれば、前人未到の7連続。「すごいよね、江夏さん」 きみが、静かに言った。その声は、ぼくと同じく、画面の緊迫感を共有している響きだった。「ああ、すごいよ。誰も、こんなこと、オールスターでやれるなんて思わない」 ぼくは、今度は画面に夢中になっているふりをして、実は受話器を耳に押し当てたまま、きみの次の言葉を待っていた。テレビでは、球場全体が異様な興奮に包まれているのが分かった。実況アナウンサーの声が、一段と高くなる。江夏が投げた。渾身のストレート。シュッ! 「空振り三振!」 アナウンサーの絶叫が部屋に響いた。7人目だ! 「あ、やった!」 受話器の向こうで、きみの小さな歓声が聞こえた。ぼくと同じ、純粋なタイガースファンとしての歓声だ。「江夏さん、きっと9つ全部狙ってるわ」 きみは、確信したようにそう言った。その声は、隣の席でノートを広げている時の、いつものクールなきみからは想像もできないほど、熱を帯びていた。「ああ、そうかも。江夏ならやりかねない」 ぼくの心臓は、江夏のピッチングテンポに合わせて、どんどん早鐘を打ち始める。これは、ただの野球観戦じゃない。きみとぼくが、初めて共有する、特別な秘密の興奮だ。8人目、岡村浩二選手。またもや、江夏のストレートが唸りを上げる。バットは空を切った! 「8連続! 記録達成まであと一人!」 リビングの静寂と、受話器から伝わるきみの吐息。この二つの空間が、たった一つの熱狂によって繋がっている。この体験は、一人で観るのとは全く違う。そして、9人目のバッター、加藤秀司選手。江夏は、このイニング、既に27球を投げている。疲労はピークのはずだ。しかし、その顔には笑みさえ浮かんでいるように見えた。きみは、もう何も言わなかった。ぼくも、何も言わなかった。ただ、二つの耳が、球場と、受話器に集中している。1ボール、1ストライク。加藤選手が打ち上げた打球が、バックネット方向に大きくファウルになった。江夏は捕手の田淵に「追うな!」と叫んでいる。伝説のシーンだ。この緊迫感の中で、江夏はただ三振だけを欲している。そして、運命の4球目。江夏が全力で投げ込んだ一球は、ミットに吸い込まれるような完璧なストレートだった。カーン! と、バットが空気を切り裂く音。「三振! 空振り三振! 9者連続奪三振達成であります!」 アナウンサーが、叫び、むせび泣くような絶叫を上げた。球場全体が爆発した。大歓声が、受話器を通して、ぼくの耳にも、きっときみの耳にも、津波のように押し寄せたはずだ。「やった……」 ぼくは、受話器を強く握りしめたまま、小さく呟いた。「すごい……!本当に……本当にやっちゃった……」 きみの声は、興奮と感動で、少し震えていた。その瞬間、ぼくは気づいた。ぼくときみは、今、同じ感動を、同じ強さで共有している。タイガース、江夏豊、そして九連続奪三振。それは、単なる野球の記録ではなく、ぼくときみを繋ぐ、この夏の、二人だけの秘密のパスワードになったのだ。
パ・リーグの打者たちを相手に、江夏豊が8連続奪三振という、まさに超人的な記録を刻んだ後だった。ぼくと受話器の向こうのきみは、しばらく言葉を失っていた。興奮と緊張が、受話器のコードを伝って、互いの心臓の鼓動をシンクロさせているようだった。沈黙を破ったのは、きみの声だった。「いよいよ最後のバッターね」 その声で、ぼくはハッと我に返り、再びテレビの画面に視線を移した。次に打席に向かうのは、阪急ブレーブスの強打者、加藤秀司選手。江夏は、オールスターで投げられる原則3イニングの、その最後の打者を迎えようとしていた。息を詰めて見守る中、運命の3球目。加藤選手が、意地を見せるようにバットを出し、打球は高々と舞い上がった。カキン! 打球は、一塁側、バックネット方向へと大きく逸れていく。ファウルボール。その瞬間、マウンド上の江夏が、捕手の田淵に向かって、全身を使って何かを叫んでいるのが見えた。その真意は、テレビ画面越しでは判別できない。しかし、そのとき、受話器の向こうで、きみが、ほとんど悲鳴のような、切実な叫びを上げた。「とるな、とるな、とるな!」 純粋な願い。記録達成への、一点の曇りもない渇望。ぼくは、きみのその感情の爆発に、背中を押されるように、いや、突き動かされるように、受話器を握りしめ、喉の奥から声を絞り出した。「とるな、とるな、とるな」 ぼくも、きみに合わせるように叫んでいた。それは、ただの野球ファンとしての願いというよりも、きみとぼくが、この歴史的な瞬間を、何にも邪魔されずに共有したいという、無意識の共同作業のようなものだった。その瞬間、ぼくときみの間にあった、クラスメイトとしての壁、男女としての遠慮、そんなものがすべて、夏の熱気と、受話器のコードの中で、溶けて消えた気がした。ぼくたちは、今、同じ景色を、同じ熱量で見つめている、二人だけの特別な共犯者になったのだ。江夏は、田淵への叫びの後、静かに、そして鋭く、加藤選手を見据えた。そして、今日一番の、魂のこもった4球目を投げ込んだ。加藤選手のバットが空を切る、乾いた音が響いた。「三振! 空振り三振! 記録達成! 9者連続奪三振、江夏豊、9連続奪三振達成であります!」 爆発的な歓声が、テレビのスピーカーと、受話器を通して、同時にぼくの耳を打ちつけた。ソファに深くもたれかかりながら、ぼくは、興奮で震える受話器を耳に押し当てたまま、きみの静かな、安堵と感動の息遣いを聞いていた。「…すごかったわね、島津くん」 きみは、感動の余韻の中で、そう呟いた。「うん。すごかった。きみと観られて、よかった」 「……え?」 「いや、なんでもない。あの、次のタイガース戦、今度、きみもテレビで観る?」 この電話の後の、ぼくときみの関係が、少しだけ、いや、きっと大きく変わる。その予感を抱きながら、ぼくは、もう画面の野球よりも、受話器の向こうのきみの返事を待つ自分の心臓の音の方が、よっぽど気になっていた。
受話器の向こうから聞こえるきみの声と、テレビの実況音声。それらが混ざり合い、ぼくの意識は、リビングのソファを離れ、熱狂の渦中にある西宮球場へと飛んだ。もし、今、ぼくときみが、この瞬間に立ち会えていたら。ぼくの幻影の中、西宮球場の観客席に、ぼくときみがいた。湿った夏の夜風と、熱気、そしてタバコの煙。周囲の喧騒の中で、ぼくときみはただ二人、前のめりになってマウンドとバッターボックスに視線を釘付けにしていた。汗ばんだ掌を、ズボンの上に押し付けていたぼくの隣で、きみは口元を固く結び、その瞳だけがギラギラと輝いていた。いよいよ9人目の打者、加藤秀司選手。江夏が投げた3球目、打球はファウルとなり、一塁側バックネット方向へ高く舞い上がった。江夏が捕手の田淵に何かを叫んだ。その意味を理解した瞬間、ぼくときみは、反射的に立ち上がった。「とるな、とるな、とるな!」 きみが、周りの喧騒を突き破るように、悲鳴にも似た、切実な声を上げた。「とるな、とるな、とるな!」 ぼくも、きみの感情に引きずられるように、その魂の叫びを繰り返した。ぼくたちの願いは、ただ一点。この歴史を、邪魔されずに完結させてくれ。捕手の田淵は、打球を追うのを途中でやめた。その仕草に、ぼくときみは安堵し、再びバッターボックスに釘付けになった。そのとき、ふと、温かいものが、ぼくの右手に触れた。きみが、ぼくの手を握っていた。驚きで、一瞬、呼吸が止まった。熱に浮かされていた意識が、現実の感触に引き戻される。テレビの向こうの興奮とは全く違う、身近で、柔らかく、確かな体温。ぼくは驚いて、きみの顔を見た。きみは、バッターボックスから視線を外さずに、ただ一瞬、ぼくに、微笑みを返した。それは、記録達成への期待と、この極限の緊張状態を共有していることへの、無言の共感だった。言葉はなくても、「大丈夫だよ」「きっとできる」と、そう語りかけているような、優しい微笑み。ぼくの心臓は、江夏の投球よりも早く、激しく脈打っていた。きみの手のひらの熱が、ぼくの手に、全身に伝わってくる。そして、運命の4球目。江夏は、ストライクゾーンのど真ん中に、力の限りを込めた渾身のボールを投げ込んだ。加藤選手が、フルスイングでバットを振った。空を切る音! バットは、ボールを捉えることなく、虚しく宙を舞った。三振! 9者連続奪三振達成! 沸き起こる、球場全体を揺るがすほどの、爆発的な大歓声。その狂乱の中で、気がつくと、ぼくときみは、抱き合っていた。きみの体温、髪の香り、全てが、ぼくの体に押し寄せてくる。興奮と感動が混ざり合い、もはや、どちらの喜びなのかもわからなかった。ぼくの肩越しに、きみの、安堵と喜びが入り混じった声が聞こえた。「よかった」 ぼくも、きみの背中に強く腕を回し、その言葉を返した。「よかった」 マウンドでは、江夏が、歓声に応えるように、両手を大きく挙げていた。その英雄的な姿と、今、ぼくが抱きしめているきみの温もりが、この夏の、そしてぼくときみの未来の思い出として、永遠に結びついた。
ぼくの意識は、歓声と熱狂が渦巻く西宮球場から、一瞬にして、静まり返ったリビングへと引き戻された。「やった」 受話器から聞こえた、きみの、少しばかり息が上がったような声。ぼくの耳には、その「やった」という言葉が、西宮球場の観客席で抱き合った瞬間に、肩越しに聞こえたはずの**「よかった」**という、あの安堵と感動の響きとして届いた。勝手な思い込みかもしれない。でも、あの緊迫した一連の出来事の中で、ぼくの心が球場へ飛んで、きみと手を握り、抱き合ったあの数秒の幻影。それは、ぼく一人の妄想だったのだろうか? 受話器の向こうで、きみもまた、ぼくと同じように、このリビングから西宮球場へと意識を飛ばしていたのではないだろうか。同じように、興奮のあまり、無意識にぼくの手を求めて、空気を握りしめていたのではないだろうか。そうでなければ、きみのあの「やった」という、ただ一言の言葉が、なぜ今でも、あの日の熱い体温として、ぼくの記憶に残っているはずがない。もちろん、ぼくときみは、あの夜、実際に西宮球場には行っていない。ぼくは一人、ソファに座っていた。きみと手を握り合ってもいないし、ましてや、感動のあまり抱き合うなんて、そんなことは物理的に起こっていない。しかし、あの夜、きみがぼくに電話をかけてきて、「じつは私もタイガースファンなの」と、まるで秘密を打ち明けるように告げ、二人で江夏の9連続奪三振という奇跡的な瞬間を、電話という細い一本の線で共有した。あの夏、二人で同じ幻を見た。その事実は、ぼくと、きみとの間に、たしかに新しい何かを築いた。それは、単なるクラスメイトの関係から、特別な思い出を分かち合った、二人だけの共犯者へと変化させた。ぼくは、あの夏、きみと「いっしょ」に観た江夏の快挙を、そして、あの電話の向こうで交わした、たった数分の、濃密な興奮の時間を、決して忘れないだろう。
了
「じつは私も……タイガースファンなの」 受話器の向こうから聞こえる、きみの、少しばかり遠慮がちだけど、どこか嬉しそうな声。ぼくは、その一言で、今しがたまでテレビに集中していた意識が、完全にきみの方へと傾くのを感じた。「そうなんだ……」 絞り出した言葉は、驚きと、戸惑いと、そして、どうしようもない高揚感で、なんだか間抜けな響きだったかもしれない。ぼくは慌ててテレビの画面に目を戻した。次に打席に入るのは、阪急ブレーブスの阪本敏三選手だ。パ・リーグ屈指の巧打者だ。そして、江夏は既に6連続奪三振。この打者を仕留めれば、前人未到の7連続。「すごいよね、江夏さん」 きみが、静かに言った。その声は、ぼくと同じく、画面の緊迫感を共有している響きだった。「ああ、すごいよ。誰も、こんなこと、オールスターでやれるなんて思わない」 ぼくは、今度は画面に夢中になっているふりをして、実は受話器を耳に押し当てたまま、きみの次の言葉を待っていた。テレビでは、球場全体が異様な興奮に包まれているのが分かった。実況アナウンサーの声が、一段と高くなる。江夏が投げた。渾身のストレート。シュッ! 「空振り三振!」 アナウンサーの絶叫が部屋に響いた。7人目だ! 「あ、やった!」 受話器の向こうで、きみの小さな歓声が聞こえた。ぼくと同じ、純粋なタイガースファンとしての歓声だ。「江夏さん、きっと9つ全部狙ってるわ」 きみは、確信したようにそう言った。その声は、隣の席でノートを広げている時の、いつものクールなきみからは想像もできないほど、熱を帯びていた。「ああ、そうかも。江夏ならやりかねない」 ぼくの心臓は、江夏のピッチングテンポに合わせて、どんどん早鐘を打ち始める。これは、ただの野球観戦じゃない。きみとぼくが、初めて共有する、特別な秘密の興奮だ。8人目、岡村浩二選手。またもや、江夏のストレートが唸りを上げる。バットは空を切った! 「8連続! 記録達成まであと一人!」 リビングの静寂と、受話器から伝わるきみの吐息。この二つの空間が、たった一つの熱狂によって繋がっている。この体験は、一人で観るのとは全く違う。そして、9人目のバッター、加藤秀司選手。江夏は、このイニング、既に27球を投げている。疲労はピークのはずだ。しかし、その顔には笑みさえ浮かんでいるように見えた。きみは、もう何も言わなかった。ぼくも、何も言わなかった。ただ、二つの耳が、球場と、受話器に集中している。1ボール、1ストライク。加藤選手が打ち上げた打球が、バックネット方向に大きくファウルになった。江夏は捕手の田淵に「追うな!」と叫んでいる。伝説のシーンだ。この緊迫感の中で、江夏はただ三振だけを欲している。そして、運命の4球目。江夏が全力で投げ込んだ一球は、ミットに吸い込まれるような完璧なストレートだった。カーン! と、バットが空気を切り裂く音。「三振! 空振り三振! 9者連続奪三振達成であります!」 アナウンサーが、叫び、むせび泣くような絶叫を上げた。球場全体が爆発した。大歓声が、受話器を通して、ぼくの耳にも、きっときみの耳にも、津波のように押し寄せたはずだ。「やった……」 ぼくは、受話器を強く握りしめたまま、小さく呟いた。「すごい……!本当に……本当にやっちゃった……」 きみの声は、興奮と感動で、少し震えていた。その瞬間、ぼくは気づいた。ぼくときみは、今、同じ感動を、同じ強さで共有している。タイガース、江夏豊、そして九連続奪三振。それは、単なる野球の記録ではなく、ぼくときみを繋ぐ、この夏の、二人だけの秘密のパスワードになったのだ。
パ・リーグの打者たちを相手に、江夏豊が8連続奪三振という、まさに超人的な記録を刻んだ後だった。ぼくと受話器の向こうのきみは、しばらく言葉を失っていた。興奮と緊張が、受話器のコードを伝って、互いの心臓の鼓動をシンクロさせているようだった。沈黙を破ったのは、きみの声だった。「いよいよ最後のバッターね」 その声で、ぼくはハッと我に返り、再びテレビの画面に視線を移した。次に打席に向かうのは、阪急ブレーブスの強打者、加藤秀司選手。江夏は、オールスターで投げられる原則3イニングの、その最後の打者を迎えようとしていた。息を詰めて見守る中、運命の3球目。加藤選手が、意地を見せるようにバットを出し、打球は高々と舞い上がった。カキン! 打球は、一塁側、バックネット方向へと大きく逸れていく。ファウルボール。その瞬間、マウンド上の江夏が、捕手の田淵に向かって、全身を使って何かを叫んでいるのが見えた。その真意は、テレビ画面越しでは判別できない。しかし、そのとき、受話器の向こうで、きみが、ほとんど悲鳴のような、切実な叫びを上げた。「とるな、とるな、とるな!」 純粋な願い。記録達成への、一点の曇りもない渇望。ぼくは、きみのその感情の爆発に、背中を押されるように、いや、突き動かされるように、受話器を握りしめ、喉の奥から声を絞り出した。「とるな、とるな、とるな」 ぼくも、きみに合わせるように叫んでいた。それは、ただの野球ファンとしての願いというよりも、きみとぼくが、この歴史的な瞬間を、何にも邪魔されずに共有したいという、無意識の共同作業のようなものだった。その瞬間、ぼくときみの間にあった、クラスメイトとしての壁、男女としての遠慮、そんなものがすべて、夏の熱気と、受話器のコードの中で、溶けて消えた気がした。ぼくたちは、今、同じ景色を、同じ熱量で見つめている、二人だけの特別な共犯者になったのだ。江夏は、田淵への叫びの後、静かに、そして鋭く、加藤選手を見据えた。そして、今日一番の、魂のこもった4球目を投げ込んだ。加藤選手のバットが空を切る、乾いた音が響いた。「三振! 空振り三振! 記録達成! 9者連続奪三振、江夏豊、9連続奪三振達成であります!」 爆発的な歓声が、テレビのスピーカーと、受話器を通して、同時にぼくの耳を打ちつけた。ソファに深くもたれかかりながら、ぼくは、興奮で震える受話器を耳に押し当てたまま、きみの静かな、安堵と感動の息遣いを聞いていた。「…すごかったわね、島津くん」 きみは、感動の余韻の中で、そう呟いた。「うん。すごかった。きみと観られて、よかった」 「……え?」 「いや、なんでもない。あの、次のタイガース戦、今度、きみもテレビで観る?」 この電話の後の、ぼくときみの関係が、少しだけ、いや、きっと大きく変わる。その予感を抱きながら、ぼくは、もう画面の野球よりも、受話器の向こうのきみの返事を待つ自分の心臓の音の方が、よっぽど気になっていた。
受話器の向こうから聞こえるきみの声と、テレビの実況音声。それらが混ざり合い、ぼくの意識は、リビングのソファを離れ、熱狂の渦中にある西宮球場へと飛んだ。もし、今、ぼくときみが、この瞬間に立ち会えていたら。ぼくの幻影の中、西宮球場の観客席に、ぼくときみがいた。湿った夏の夜風と、熱気、そしてタバコの煙。周囲の喧騒の中で、ぼくときみはただ二人、前のめりになってマウンドとバッターボックスに視線を釘付けにしていた。汗ばんだ掌を、ズボンの上に押し付けていたぼくの隣で、きみは口元を固く結び、その瞳だけがギラギラと輝いていた。いよいよ9人目の打者、加藤秀司選手。江夏が投げた3球目、打球はファウルとなり、一塁側バックネット方向へ高く舞い上がった。江夏が捕手の田淵に何かを叫んだ。その意味を理解した瞬間、ぼくときみは、反射的に立ち上がった。「とるな、とるな、とるな!」 きみが、周りの喧騒を突き破るように、悲鳴にも似た、切実な声を上げた。「とるな、とるな、とるな!」 ぼくも、きみの感情に引きずられるように、その魂の叫びを繰り返した。ぼくたちの願いは、ただ一点。この歴史を、邪魔されずに完結させてくれ。捕手の田淵は、打球を追うのを途中でやめた。その仕草に、ぼくときみは安堵し、再びバッターボックスに釘付けになった。そのとき、ふと、温かいものが、ぼくの右手に触れた。きみが、ぼくの手を握っていた。驚きで、一瞬、呼吸が止まった。熱に浮かされていた意識が、現実の感触に引き戻される。テレビの向こうの興奮とは全く違う、身近で、柔らかく、確かな体温。ぼくは驚いて、きみの顔を見た。きみは、バッターボックスから視線を外さずに、ただ一瞬、ぼくに、微笑みを返した。それは、記録達成への期待と、この極限の緊張状態を共有していることへの、無言の共感だった。言葉はなくても、「大丈夫だよ」「きっとできる」と、そう語りかけているような、優しい微笑み。ぼくの心臓は、江夏の投球よりも早く、激しく脈打っていた。きみの手のひらの熱が、ぼくの手に、全身に伝わってくる。そして、運命の4球目。江夏は、ストライクゾーンのど真ん中に、力の限りを込めた渾身のボールを投げ込んだ。加藤選手が、フルスイングでバットを振った。空を切る音! バットは、ボールを捉えることなく、虚しく宙を舞った。三振! 9者連続奪三振達成! 沸き起こる、球場全体を揺るがすほどの、爆発的な大歓声。その狂乱の中で、気がつくと、ぼくときみは、抱き合っていた。きみの体温、髪の香り、全てが、ぼくの体に押し寄せてくる。興奮と感動が混ざり合い、もはや、どちらの喜びなのかもわからなかった。ぼくの肩越しに、きみの、安堵と喜びが入り混じった声が聞こえた。「よかった」 ぼくも、きみの背中に強く腕を回し、その言葉を返した。「よかった」 マウンドでは、江夏が、歓声に応えるように、両手を大きく挙げていた。その英雄的な姿と、今、ぼくが抱きしめているきみの温もりが、この夏の、そしてぼくときみの未来の思い出として、永遠に結びついた。
ぼくの意識は、歓声と熱狂が渦巻く西宮球場から、一瞬にして、静まり返ったリビングへと引き戻された。「やった」 受話器から聞こえた、きみの、少しばかり息が上がったような声。ぼくの耳には、その「やった」という言葉が、西宮球場の観客席で抱き合った瞬間に、肩越しに聞こえたはずの**「よかった」**という、あの安堵と感動の響きとして届いた。勝手な思い込みかもしれない。でも、あの緊迫した一連の出来事の中で、ぼくの心が球場へ飛んで、きみと手を握り、抱き合ったあの数秒の幻影。それは、ぼく一人の妄想だったのだろうか? 受話器の向こうで、きみもまた、ぼくと同じように、このリビングから西宮球場へと意識を飛ばしていたのではないだろうか。同じように、興奮のあまり、無意識にぼくの手を求めて、空気を握りしめていたのではないだろうか。そうでなければ、きみのあの「やった」という、ただ一言の言葉が、なぜ今でも、あの日の熱い体温として、ぼくの記憶に残っているはずがない。もちろん、ぼくときみは、あの夜、実際に西宮球場には行っていない。ぼくは一人、ソファに座っていた。きみと手を握り合ってもいないし、ましてや、感動のあまり抱き合うなんて、そんなことは物理的に起こっていない。しかし、あの夜、きみがぼくに電話をかけてきて、「じつは私もタイガースファンなの」と、まるで秘密を打ち明けるように告げ、二人で江夏の9連続奪三振という奇跡的な瞬間を、電話という細い一本の線で共有した。あの夏、二人で同じ幻を見た。その事実は、ぼくと、きみとの間に、たしかに新しい何かを築いた。それは、単なるクラスメイトの関係から、特別な思い出を分かち合った、二人だけの共犯者へと変化させた。ぼくは、あの夏、きみと「いっしょ」に観た江夏の快挙を、そして、あの電話の向こうで交わした、たった数分の、濃密な興奮の時間を、決して忘れないだろう。
了
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