ええやん

自転車のペダルを漕ぐリズムは、私の体調のバロメーターだ。最近の私の日常は、点在する三つの「止まり木」を中心に回っている。それらはすべて医療機関なのだが、不思議と足取り(あるいは車輪の回転)は重くない。むしろ、そこにある微かな心の交流を確かめに行くような、そんな静かな楽しみすら感じている。商店街の賑わいが途切れ、住宅街の静寂が混ざり始めるその場所に、N歯科はある。新しく開業したばかりのそこは、いつ行っても真っ白な漆喰のような清潔な匂いがする。「こんにちは、お待ちしておりました」 受付の女性の声は、新品のノートをめくる音に似ている。丁寧だが、どこか初々しい熱がこもっている。彼女の指先が診察券を受け取る際、ほんの少しだけ指先が触れそうになる。そんな些細な距離感に、新しい場所特有の「これから関係を築いていこう」という瑞々しい意思を感じるのだ。若々しい院長もまた、私の口内を覗き込みながら「順調ですよ」と、まるで自分のことのように喜んでくれる。その言葉に、私は自分の体が新築の家のように手入れされていく錯覚を覚える。N歯科から少し路地を曲がった先にあるのが、ベテランの先生が営む船附内科だ。ここへの道のりは、目をつぶっていても体が覚えている。ここの受付の女性は、私の顔を見ただけで「今日は少しお疲れですか?」と、カルテを開く前に微笑む。長年、多くの患者を見守ってきた彼女たちの優しさは、使い込まれたリネンのように柔らかく、肌に馴染む。「無理しちゃダメだよ、Sさん」 白髪の混じった船附先生の診断は、いつも短い。けれど、聴診器を当てる手の温かさが、どんな饒舌な説明よりも私を安心させる。そこには、長い時間をかけて熟成された、言葉を必要としない「信頼」という名の、心地よい倦怠感がある。少し気合を入れてペダルを漕ぎ、坂を越えた先にあるのがK中央病院だ。眼科までは15分かかるが、その距離が私には必要な「儀式」のように思える。ここの眼科は、病院という場所のイメージを覆すほど、空気が澄んでいる。「検査、お疲れ様でした。こちらへどうぞ」 スタッフ全員が、まるで示し合わせたかのように穏やかで、その立ち居振る舞いには一切の棘がない。視力検査の暗闇から明かりの下へ戻るたび、彼女たちの優しい眼差しに触れると、私の心まで洗浄されたような気分になる。若いが信頼の厚い担当医は、モニターを見る私の横顔に配慮しながら、静かに、しかし確かな知性を持って現状を語る。「よく見えていますね。その調子です」 その一言で、私の世界の解像度が少しだけ上がる気がする。 三つの場所。三つの距離。そして三つの異なる優しさ。新しく始まる関係、積み重ねられた安心、そして遠くから見守られる信頼。 私は帰り道、再び自転車を漕ぎ出す。医療機関を巡ることは、自分を修理することだと思っていた。けれど今は違う。私はあの場所へ、人と人との間にある、名前のつかない「心地よい微熱」を確かめに行っているのだ。 西日に照らされた商店街を通り抜けながら、私は思う。明日の私の視界は、今日よりもきっと、もう少しだけ優しいはずだ。

N公園の緑が、春の陽光を反射してまぶしい。その向かい側にひっそりと佇むN郵便局の扉を、私は手に持った納付書の束と一緒に押し開けた。窓口の奥には、見慣れない顔があった。今年入ったばかりなのだろう、糊のきいた制服がまだ体に馴染みきっていないような、初々しい空気を感じさせる女性局員だ。「こちらの納付書ですね。お預かりします」 彼女の声は、朝の空気のように澄んでいた。テキパキと書類を確認していた彼女の手が、ふと止まる。そして、少しだけ身を乗り出すようにして、私に視線を合わせた。「あの、もしよろしければ……あちらのATMで手続きされた方が、手数料が少しお安くなりますよ」 それは、マニュアル通りの事務的な言葉ではなかった。私の家計を、ほんの少しだけ気遣ってくれるような、柔らかな響きを含んでいた。「あ、そうなんですね……」 私はATMの方をちらりと見た。無機質な機械が並んでいる。自分一人で、あの複雑な画面操作を間違えずに終えられるだろうか。後ろに人が並んだら、焦ってボタンを押し間違えてしまうかもしれない。私の小さな沈黙の中に、言い出せない不安が混ざる。彼女は、私の指先がわずかに迷うように動いたのを見逃さなかった。「……操作、少しややこしいですよね。ご不安でしたら、私がお手伝いしましょうか?」 その言葉は、押し付けがましくなく、そっと背中に手を添えてくれるような温度感だった。「お願いします」 私が短く答えると、彼女は「はい!」と花が咲くような笑顔を見せた。窓口の外へ出てきた彼女と並んで、ATMの前へ向かう。機械の電子音と、彼女の丁寧なガイドが重なる。「ここを押すと、次はこの画面になります」「はい、それで大丈夫です」 わずか数分の出来事。手続きを終えた私の手元には、控えの紙と、ほんの少しの節約、そしてそれ以上に大きな「安心感」が残っていた。郵便局を出ると、N公園の木々が風に揺れていた。ただの支払手続き。けれど、あの若い局員の「お手伝いしましょうか?」という一言で、私の今日の景色は少しだけ色鮮やかになった気がする。新しい季節に、新しい場所で一生懸命に生きる彼女の優しさが、私の日常のささかな不安を溶かしてくれたのだ。私は軽くなった足取りで、公園の横を通り過ぎる。明日、またどこかで誰かに、同じような優しい言葉を返せたら。そんなことを考えながら、私は春の風の中を歩き続けた。

小さな公園の木々が、午後の柔らかな光を地面に落としている。そのすぐ隣、油の匂いと古いゴムの香りが混ざり合う場所に、その自転車屋はあった。私の愛車は、数年前に義父から貰い受けた、どこにでもある自転車だ。この店で買ったわけではないという後ろめたさが、パンクしたタイヤの重みと一緒に私の足元にまとわりついていた。「すみません、パンク修理をお願いできますか」 店主は、使い込まれた作業着の袖をまくり、短く「おう」とだけ応えた。彼は私の自転車がどこの馬の骨かも問わず、手慣れた手つきで車体を逆さにする。金属が触れ合う小気味よい音だけが、公園から聞こえる子供たちの歓声に混じって響いた。私は手持ち無沙汰に、店内に並ぶ高級そうなロードバイクを眺めていた。場違いな場所に来てしまったかもしれない――そんな小さな後悔が胸をよぎる。パンクの穴が塞がれ、空気が勢いよく注入される。修理は終わったはずだった。しかし、店主は立ち上がらなかった。彼は無言のまま、ブレーキレバーを何度か握り、その引きの甘さに眉をひそめた。カチカチと小さなネジを回す音が聞こえる。続いて、彼は真っ黒なオイルの瓶を手に取った。「……あの、パンク修理だけで大丈夫ですよ」 私が思わず声をかけると、店主は顔も上げずに、銀色のチェーンに一滴ずつ、丁寧に油を差していく。「ブレーキが泣いてたからな。ついでだ」 それは、サービスという言葉では片付けられない、職人の意地のようなものに見えた。あるいは、ただそこにある機械が「正しく動いていない」ことが、彼には我慢ならなかっただけなのかもしれない。「はい、終わりだ。パンク代だけでいいよ」 差し出された請求額には、当然のように点検代もオイル代も含まれていなかった。お礼を言って店を出ると、公園の横の緩やかな坂道に差し掛かる。ペダルを漕ぎ出した瞬間、私は驚いた。チェーンの回転は絹のように滑らかで、ブレーキは私の意志を汲み取るようにピタリと止まる。今までどれほど不自由な状態で走っていたのかを、その「正解」の軽さが教えてくれた。たった数十分前まで、私にとってここは「よその店」だった。けれど今は、この町に自分を支えてくれる場所が一つ増えたような、そんな心強さを感じている。 店主との間に、特別な会話があったわけではない。ただ、プロの誠実さに触れ、私の自転車が「ただの乗り物」から「大切にされるべき相棒」へと書き換えられたのだ。 私は、新しくなったような乗り心地を楽しみながら、再び街へと走り出す。次のパンクが待ち遠しい、なんて言ったら不謹慎だろうか。けれど、次に何かあった時、私は迷わずあの公園の横を目指すだろう。

義父から譲り受けたその自転車は、私の日常を静かに支えてきた相棒だった。長年の使用で塗装は剥げ、あちこちに錆びが浮いている。けれど、ペダルを漕ぐたびに伝わってくる確かな重みには、義父が大切に乗っていた時間が詰まっているような気がして、なかなか手放せずにいた。ある日、ついにその足取りが止まった。異音とともにチェーンが噛み込み、動かなくなったのだ。私は重い車体を引きずるようにして、例の公園横にある小さな自転車屋へと向かった。店主は、私の古い自転車をじっと見つめると、愛おしそうにそのフレームを撫でた。「……本当にいい自転車だね、これは。作りが丁寧だ」 彼はそう呟き、いつものように無言で作業を始めた。応急処置。それはまるで、役目を終えようとする老兵に対する、最後の敬意の払い方のようだった。油を差し、調整を施し、再び動くようになった車体を私に返しながら、彼は一冊のパンフレットを差し出した。「次に動かなくなったら、もう買い替えたほうがいいよ。寿命だ」 そこには、ブリヂストンや丸石といった、質実剛健な国内メーカーのモデルが並んでいた。値段を見て、私は少しだけ息を呑んだ。量販店で売られているものの倍はする。彼はそれ以上何も言わず、ただ静かに奥へ戻っていった。

いつもの公園の横を通るたび、私は無意識にその場所を探してしまう。けれど、あの誠実な店主がいた自転車屋ののれんは、上がらないままだった。季節が一つ、二つと巡っても、閉ざされたシャッターが再び開く気配はない。私の日常を支えていた「安心」の灯が消えてしまったような、言いようのない寂しさが胸に澱(おり)のように溜まっていった。義父から譲り受けた自転車もいよいよ限界を迎え、私はやむなく、県道沿いにある大手量販店へと足を向けた。明るい照明の下、整然と並ぶ最新の自転車たち。店員はマニュアル通りの笑顔で、機能性を説く。そこで手に入れた新しい五段変速の自転車は、確かに軽快だった。けれど、どこか自分の体の一部になりきれない、借り物のような感覚が拭えなかった。 数ヶ月が経つ頃、異変が起きた。グリップの変速カバーが、夏の熱に負けたのか、それとも素材の性質か、じわじわと溶け始めたのだ。ハンドルを握るたび、手のひらが真っ黒に汚れる。拭いても拭いても、ねっとりとした不快な感触がつきまとう。それはまるで、効率と利便性を優先して選んだ私の「妥協」が、汚れとなって滲み出してきたかのようだった。 「……あそこなら、見てくれるだろうか」 私は、交番のすぐそばにある、もう一軒の古い自転車屋を思い出した。公園横の店と同じように、時代から取り残されたような佇まい。店頭には色褪せた看板が立ち、入り口には長年使い込まれた工具が静かに並んでいる。 「すみません、このグリップが……」 声をかけると、奥から腰の曲がった店主がゆっくりと姿を現した。彼は私の新しい自転車をひと目見るなり、困ったように眉根を寄せた。 「ああ……これは大手専用の部品だね。うちには在庫がないし、取り寄せようにも規格が合わないよ」 それは、商売としての「お断り」だった。当然のことだ。ここで買ったわけでもない、しかも規格の違う最新の自転車。彼には私を助ける義理も、メリットも何一つないのだから。 私が諦めて帰ろうとした、その時だった。店主は何も言わず、傍らにあったボロ布と、何やら特殊な溶液の入った瓶を手に取った。 「ちょっと、貸してごらん」 彼は店先に座り込み、私の手のひらを汚し続けていた黒いベタつきを、丁寧に、一箇所ずつ拭き取り始めた。部品がないのなら、せめて今できる最善を。そんな無言の意思が、彼の動く指先から伝わってくる。溶液の匂いが鼻をつく。店主の節くれ立った指は、瞬く間に真っ黒に染まっていく。 「これで、しばらくは手に付かないはずだ。でも、早めに買った店で交換してもらいなさいよ」 作業を終えた彼は、代金を受け取ろうともせず、ただ「気をつけてな」とだけ言って、再び店の奥の薄暗がりへと消えていった。 私は、きれいになったハンドルを握り、ゆっくりとペダルを漕ぎ出した。公園横の店主が教えてくれた誠実さと、交番横の店主が見せてくれた無償の慈しみ。形は違えど、この街にはまだ、効率や損得勘定では測れない「人の体温」が確かに残っている。 手のひらはもう、黒く汚れてはいない。それどころか、ハンドルを通して伝わってくる冷たい金属の感触が、今はひどく温かく感じられた。 新しい自転車は、まだ少しだけよそよそしい。けれど、この街の職人たちの手にかかったことで、ようやく私の日常の一部として、呼吸を始めたような気がした。

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