恵子ちゃん
そう考えているうちに、音楽はいつの間にか、ぼくのまぶたの裏にやわらかい毛布のように広がっていた。気がつくと、眠気がゆっくりと身体の中にしみ込んできていた。 演奏がふっと途切れた。その瞬間、空気のどこかに小さな穴があいたような、奇妙な静けさが生まれた。音楽がなくなるだけで、世界がほんの少し薄くなったような気がした。 たぶん、エプロンをしたおねえさんがレコードを裏返しているんだろう。そんな光景が、うすぼんやりとした意識の中に浮かんだ。白い指先、回転の止まったターンテーブル、少しだけ傾いたランプの灯。 理由なんて、いらなかった。ただ、そうだとしか思えなかった。 そしてその「そうだ」という感覚が、音楽の残り香みたいに、ぼくの心の奥で静かにゆれていた。
夢のなかで、ふと懐かしい音楽が聞こえてきた。どこで聞いたのか、思い出せない。けれど、ずいぶん昔に耳にしたような気がした。たぶん、放課後の教室か、夕暮れの校庭か――そんな場所だったような気もする。 その旋律が流れ出した瞬間、胸の奥で小さく「カチリ」と音がした。長いあいだ止まっていた時計の針が、ひとつ動いたような感覚だった。 すると、不意に小学校の風景が浮かび上がった。昇降口のざらついた床、ランドセルの擦れる音、チョークのにおい。遠くで「家路」が流れている。ぼくは、あの頃の自分に少しだけ近づいたような気がした。
埃っぽい廊下の匂い、遠くで誰かが呼ぶ声、裏庭に積まれた古いタイヤ。そのどれもが、色あせた記憶のはずなのに、夢のなかでは妙にはっきりしていた。 空は夕陽で茜色に染まっていて、校舎の窓ガラスが赤く光っていた。まるで世界全体が一瞬だけ呼吸を止めて、沈黙の中に沈んでいくみたいだった。 時間がゆっくりと、ほんの少しだけ後ろ向きに流れているような感覚がした。ぼくはしばらく目を閉じたまま、その懐かしい音楽に耳を傾けた。 耳の奥で、夕暮れの鐘の余韻がやさしく揺れた。その響きに触れるたび、何かが遠い場所から戻ってくるような気がした。
ぼくは校門の前で恵子ちゃんを待っていた。四月の午後の光は、いつだって時間の輪郭を少しぼやけさせる。空気はほんのりとぬるく、風はどこか遠い場所の匂いを運んで、ぼくのシャツの袖をやさしく揺らした。 恵子ちゃんはまだ来ない。時計を見ても、針が進んでいるのかどうかよくわからなかった。彼女が遅れるのはこれが初めてじゃないし、もし理由を聞いたとしても、きっと「ちょっと考えごとしてたの」なんて言うんだろう。そして、たぶんそれは本当だ。 ぼくは開いていた文庫本をぱたんと閉じ、小さく息を吐いた。校庭の向こうでサッカーのゴールネットが、風に合わせてかすかに震えていた。 そのとき、猫が一匹、ぼくの足元をかすめるように横切っていった。急いでいるふうでもなく、どこかへ帰る途中でもないような、そんな歩き方だった。 世界は今日も、理由もなく静かで、ゆっくりと回っているように見えた。
校門のところまで出てきた先生は、しばらく耳を澄ますようにして立ち止まった。風の音を聞いているのか、それとも別の何かを確かめているのか、ぼくにはわからなかった。 「音楽はもう聞こえないね。もう帰りなさい」先生はそう言った。 「恵子ちゃんを待ってるんです。彼女がまだ校舎から出てこないんです」気がつけば、ぼくの声はひどく必死だった。自分でも、こんなふうに声を張ることがあるんだと驚いたくらいだ。 でも先生の表情は、春先の薄い雲みたいに曖昧で、どこか焦点の合っていない目をしていた。 「もう学校には誰もいないよ。恵子さんなら、とっくに帰ったさ」そう言うと、先生はぼくの背中にそっと手を置いた。ほんのわずかな重みだったけれど、その感触はなぜか、冷えた空気よりも静かだった。 「気をつけて帰るんだよ」 その一言のあと、先生は音も立てずに校門を閉めた。門が閉まるときの、あの金属の擦れる音だけが、時間の底で小さく震えて、いつまでも耳の内側に残っていた。
ぼくはしばらくのあいだ、校庭の片隅に立ち尽くしていた。夜の空気は少し湿っていて、どこか遠くで犬が一声だけ吠えた。恵子ちゃんはいったいどこへ行ってしまったんだろう。そう思いながら空を見上げると、月が雲の切れ間から、まるで疲れた俳優みたいな顔をしてこちらを覗いていた。 「ここにいるわよ」 不意に声がした。振り向くと、校門の前に恵子ちゃんが立っていた。街灯の光を浴びたその顔は、深海から浮かび上がってきた人魚みたいに青白くて、どこかこの世界のものでないように見えた。 「ごめんね、ゆたちゃん。待たせちゃった?」 「ううん、大丈夫。でも、どこ行ってたの?」気づけば自然にそう訊いていた。彼女の顔を見ながら。 「跳び箱の練習してたの。クラスで飛べないの、わたしだけなんだよね。なんだか悔しくてさ」 そう言って、ふっと笑い、くるりと踵を返す。その動きは、風に溶けるみたいに軽かった。 ゆっくりと歩きはじめた彼女の横に、ぼくも慌てて並んだ。夜風が少し強く吹いて、彼女の髪がぼくの肩にふれたような気がした。それが本当に風のせいなのか、彼女のせいなのか、判別できなかったけれど――どちらにしても、その瞬間の温度はぼくの胸の中にいつまでも残った。
ぼくたちは田んぼの間を縫うようにして伸びる細い畦道を、無言で並んで歩いていた。空は静かに暮れかけていて、どこか遠くで蛙が鳴いていた。グワッ、グワッ、グワッ。まるで壊れた機械が同じリズムで空気を震わせているみたいだった。 「わたしね、運動神経はそんなに悪くないのよ」恵子ちゃんがぽつりと言った。 「だから大抵のスポーツはなんとかこなせた。でもね、跳び箱だけはだめだった。あれだけはどうしても、体が言うことをきかないの。跳び箱の前に立つと、変な恐怖感が出てきて、足が止まっちゃうの」 そう言って彼女はぼくのほうを見た。少し笑った。その笑みは、どこか壊れかけたオルゴールみたいだった。メロディは確かに流れているのに、どこかがずれている。 「それで、練習して飛べるようになったの?」「うん。飛べるようになった」「ほんとうに?」 ぼくは思わず彼女の顔を覗きこんだ。でもその顔には、飛べるようになった人が見せるはずの明るさはなかった。あるのは、薄く曇ったような、取り返しのつかない何かを胸の奥にしまいこんだ人の表情だった。 彼女の額の左上に、小さなたんこぶのような膨らみがあった。 「その傷、どうしたの?」 恵子ちゃんは答えなかった。ただ、「ほんとうよ。クラスで誰も飛べなかった段まで、わたし飛んだんだから」とだけ言って、今度はほんの少しだけ頬を緩ませた。 畦道を抜けると、遠くに民家の灯りがぽつりぽつりと浮かんでいた。ぼくは思い出したように訊いた。 「跳び箱って、一人で用意したの?」 「ううん。クラスに戻ったらね、タオルを体育館のドアノブにかけたままだったのを思い出したの。それを取りに行ったら、跳び箱がまだ片付けられてなくて、そのまま置いてあったの」 秘密を打ち明けるみたいな声で、彼女はぼくの顔を見ずに言った。 「それで?」ぼくも彼女の顔を見ずに言葉を継いだ。 返事はなかった。 「それからどうしたの、恵子ちゃん?」 やはり返事はなかった。 ぼくは胸の奥がひゅっと冷たくなるのを感じて、ほんの少しだけ顔を横に向けた。 でも、そこには――もう、恵子ちゃんの姿はなかった。
「恵子ちゃん、どこにいるんだ?」 ぼくはもう一度、声に出して言った。誰に届くともわからないまま、空気の中に言葉を放り出すように。まるで、風の向こうから答えが返ってくるのを、どこかで期待しているみたいだった。 「ここにいますよ」 声がして、はっとした。気がつくと、螢子さんがぼくの顔を覗き込んでいた。古い映画のワンシーンみたいに、動きはゆっくりで、表情はやわらかかった。 「夢でも見ていたの?」彼女は少し首をかしげて言った。「けいこちゃん、けいこちゃんって……わたしの夢?」 彼女の顔がすぐそこにあった。近すぎて、かえって現実感が薄れる。これはさっきまでの続きなのか、それとも、ここからが現実なのか、ぼくには判断がつかなかった。 大きな瞳が、少し驚いたようにぼくを見つめている。形のいい鼻と、わずかに肉厚で、言葉を待っているみたいな唇。世界が一瞬、音を失って、その一点にすべてが集まってしまったような感覚だった。 「恵子ちゃんは……死んだんだ」 ぼくはそう言った。声に出した途端、その言葉が空気の中に固定されてしまったような気がした。取り消すことも、言い直すこともできない事実として。 「えっ……」 螢子さんは目を見開いた。驚きというより、何かをうまく受け止めきれないときの表情だった。彼女の中にあった、見えない積み木が、音もなく崩れたように見えた。 「きみじゃない」ぼくは続けた。「螢子さんじゃないんだ」 ようやく、それだけを口にすることができた。 「わたしじゃない?」彼女は少し間を置いてから言った。「……じゃあ、誰のこと?」 その問いは、責めるようでも、探るようでもなかった。ただ、ぼくと彼女のあいだに、ほんのわずかな距離が生まれたことを、確かめるための言葉のように聞こえた。
「……ちょっと待って」 ぼくはそう言った。けれど、その「ちょっと」が何分なのか、何年なのか、自分でもよくわかっていなかった。時間というものが、ここではうまく目盛りを刻んでいない気がした。 ぼくは静かに手を挙げて、エプロンをしたおねえさんを呼んだ。声は思ったより落ち着いていて、自分でも少し意外だった。コーヒーと、それから水をお願いします、と言った。 螢子さんは何か言いかけて、ほんの一瞬、口を開いたまま止まった。それから小さく首を振って、その言葉を胸の奥にしまい込んだみたいだった。その仕草が、さっきより少しだけ、大人びて見えた。 店の空気には、午後の終わりかけの匂いが漂っていた。もう戻れない場所がある、と誰かにそっと告げられているような、取り返しのつかない気配。窓際の席に射し込む光が、テーブルの角を曖昧に溶かしていた。 ぼくは黙ったまま、頭の中で言葉の並びを何度も組み替えていた。 どの順番なら、彼女を傷つけずに済むのか。あるいは、そもそも傷つけない言い方なんて、存在するのか。 それは、古いレコードのA面とB面を、意味もなく何度もひっくり返す作業に似ていた。針を落とす前の、あの一瞬のためらいだけが、いつまでも続いているようだった。
エプロンをしたおねえさんが、ホットコーヒーと水の入ったグラスを、音を立てないようにテーブルの上へ置いた。 湯気が、ためらうみたいに一瞬だけ立ち上って、すぐにほどけた。 そのまま立ち去るのかと思ったら、彼女は少しだけ姿勢を崩して、 「わたしも、ここに座っていいかしら?」 と、ぼくに訊いた。 声は低くも高くもなく、答えがどちらでも受け入れる、そんな響きだった。 ぼくは反射的に螢子さんのほうを見た。 彼女は一瞬だけ視線を落とし、それから小さく頷いた。 ほんの数センチ分、身体をずらして、誰かが入り込める余白をつくる。 その動きが、なぜだかとても丁寧に見えた。 エプロンをしたおねえさんは「ありがとう」と小さく言って、その空いた場所に腰を下ろした。 椅子がきしむこともなく、まるで最初から三人で座る予定だったみたいに、自然だった。 テーブルの上には、コーヒーと水と、それから言葉にならない沈黙が並んでいた。 三人の距離は近いはずなのに、それぞれが少しずつ違う場所を見ている感じがした。 ぼくはコーヒーカップに手を伸ばした。 まだ熱くて、すぐには持てなかった。 そのことが、いまの自分の状態を、妙に正確に表している気がした。
コーヒーに、少しだけ砂糖を落とした。白い粒が、表面で一瞬ためらってから、ゆっくり沈んでいく。ミルクはどうしようかと迷って、ほんの数秒考えた末に入れた。たぶん、そのときのぼくは、理由よりも感触を選びたかったんだと思う。少し甘くて、あたたかいものが必要だった。 心臓の鼓動が、ほんのわずかに速かった。どうしてなのかはわからない。コーヒーをひと口含むと、その鼓動が少しだけ丸くなった。部屋の隅に置かれた古いラジオから流れるジャズが、空気の粒子を一つずつ撫でて、部屋になじんでいく――そんな感じに近かった。 ぼくはカップをそっとテーブルに戻し、今度は水の入ったグラスを手に取った。水は冷たく、余計なものがなくて、体の中をまっすぐ通り抜けていった。飲み干してから、またコーヒーをひと口。その順番にも、たぶん意味はなかった。 カップを置いて、ぼくはようやく口を開いた。 「恵子ちゃんっていうのは、ぼくの幼なじみなんだ。 小学校の頃、毎日いっしょに帰ってた」 声は、自分でも驚くほど静かだった。感情がないわけじゃない。ただ、それを大きくする必要がない気がした。 螢子さんは、何も言わずにぼくの顔を見ていた。エプロンをしたおねえさんは、視線をカップの縁に落としたまま、かすかに息を整えていた。二人とも、話の続きを急かさない。そのことが、ぼくにはありがたかった。 「仲が良かったんだ。理由なんてなかったと思う。朝も、帰りも、気がつくと隣にいて……それが、世界の基本みたいな感じだった」 言葉が空気に触れても、重たくならなかった。それはきっと、このテーブルの上にある沈黙が、ちゃんと受け止めてくれていたからだ。 ぼくはもう一度コーヒーを見た。湯気はほとんど消えていたけれど、まだ、あたたかさは残っていた。
あの日、校門で恵子ちゃんを待っていたところから、ぼくは話しはじめた。言葉にすると、出来事は驚くほど単純な形に収まってしまう。でも、実際にはそんなにきれいなものじゃなかった。 ぼくはコーヒーをもう一口飲んだ。さっきより少しだけ苦味が前に出てきた気がした。窓の外では、曇った空を一羽のカラスが横切っていった。羽ばたく音は聞こえなかったけれど、影だけがガラスの表面をすっと滑っていった。 「恵子ちゃんが消えたのは……たしか、四月の終わりごろだったと思う」 そう言いながら、ぼくは季節の匂いを思い出そうとしていた。新しい教科書の紙の匂い。まだ肌寒い朝と、妙に生ぬるい午後。ぼくが、その理由を理解しようとしていた、ちょうどその頃の話だ。 誰も見ていなかった。 少なくとも、そういうことになっていた。誰にも説明できなかったし、説明しようとしたところで、言葉は途中で形を失ってしまった。 ただ、ある日突然、彼女はそこにいなくなった。席も、靴箱も、帰り道も。まるで、もともと存在しなかったみたいに、すっと空白になった。 それだけのことだ、と大人たちは言った。でも、ぼくには「それだけ」と言えるほど、世界は単純じゃなかった。 ぼくは、その話を思い出しながら、もう一度コーヒーに口をつけた。カップの縁に、かすかに残った温度が唇に伝わる。螢子さんも、エプロンをしたおねえさんも、まだ何も言わない。その沈黙が、ぼくの話を急かさず、否定もせず、ただそこに置いてくれている。 ぼくは少しだけ息を整えて、続ける準備をした。この先にある話は、きっと、もっと曖昧で、もっと説明しにくい。それでも、今なら話せる気がしていた。この静かなテーブルの上でなら。
温度は少しだけ下がっていて、味はさっきよりも現実的だった。舌の上に残る苦味が、いまの空気に妙によく合っている。 「恵子ちゃんは、死んでしまったの?」 螢子さんと、エプロンをしたおねえさんが、まるで何かの合図でもあったかのように、同時にそう言った。声の高さも、間の取り方も、ほとんど同じだった。その一致が、ぼくには少しだけ不自然に感じられた。 一瞬、自分の耳に異常が起きたのかと思った。あるいは、夢の続きをまだ引きずっているのかもしれない、と。でも違った。ふたりともちゃんとそこにいて、椅子に腰かけ、同じ言葉を、同じ重さで口にしていた。 ぼくは答えられなかった。答えが見つからなかったというより、どの答えも、この場の空気をわずかに壊してしまう気がしたのだ。 テーブルの上のコーヒーカップを見つめる。白い陶器の縁に、薄く残ったコーヒーの跡。それは、さっきまで確かに熱を持っていたものの名残だった。 沈黙が落ちた。でも、それは気まずい沈黙ではなかった。螢子さんは、ぼくの顔を見ずに、カップの取っ手に指を添えたまま動かない。エプロンをしたおねえさんも、背筋を伸ばしたまま、視線を少しだけテーブルに落としている。 ふたりのあいだに、微妙な距離が生まれているのがわかった。それは、ぼくとの距離ではなく、ふたりのあいだの距離だ。さっきまで同じ言葉を同時に口にしたのに、そのあとで、ほんのわずかに、立つ場所がずれた。 ぼくはそのずれを、見ないふりをした。そして、自分の胸の奥で、まだ形にならない何かが、静かに息をしているのを感じていた。
「曲が変わった」と、ぼくは言った。自分でも、ひどく場違いな発言だと思った。いま口にするべき言葉は、きっとほかにあったはずだ。 音楽は、たしかに変わっていた。それまで流れていた旋律が、いつのまにか別の流れにすり替わっている。でも、それがなぜ気になったのかは、うまく説明できなかった。ただ、空気の手触りが、ほんの少しだけ違ってしまった。さっきまで漂っていた沈黙とは、質の違う沈黙が、そこにあった。 「スメタナの《モルダウ》」 螢子さんと、エプロンをしたおねえさんが、またぴたりと同時に言った。今度は驚きよりも、奇妙な納得が先に立った。まるで、ふたりが同じ場所の、同じ深さに立っているみたいだった。 その声には、水の底から響いてくるような、不思議な響きがあった。 直接こちらに届くというより、何かを回り道して、ゆっくりと浮かび上がってくる感じ。川の流れの下に沈んだ石が、長い時間をかけて形を変えていく、その音を聞いているようだった。ぼくはしばらく黙っていた。何かを言えば、また均衡がずれてしまう気がした。言葉は、ときどき思っている以上に重たい。 《モルダウ》は、静かに流れ続けていた。速すぎもせず、遅すぎもせず、ただ自分の速度を守って。その流れの中で、螢子さんはカップに口をつけ、エプロンをしたおねえさんは、膝の上で指を組み替えた。 その小さな動きが、ふたりが同じではないことを、そっと教えてくれた。同じ言葉を、同じタイミングで口にしても、たどってきた流れは、それぞれ違う。 ぼくは、そのことを確かめるように、もう少しだけ黙っていることにした。音楽に身を預けながら、いま、このテーブルの上で、静かに起きている変化を、見逃さないために。
「それで、恵子ちゃんは死んでしまったの?」 螢子さんが、ぽつんと言った。その声は、夜の底へ沈んでいく石みたいに静かで、あとには小さな波紋だけが残った。 「うん。そのとき、もう恵子ちゃんは死んでいたんだ」 ぼくはそう答えた。言葉にしているはずなのに、どこか遠くの誰かの出来事を説明しているような気がした。自分の話なのに、体温が通っていない。 「じゃあ、島津さんが見たのは……恵子ちゃんのみたまってこと?」螢子さんは眉を寄せ、首を少し傾げた。「そんなの、信じられない」 その表情は、自分がずっと信じていた世界の端っこが、ほんの少し破れてしまった人の顔だった。破れ目の向こうを、見てはいけないものまで覗いてしまった、そんな感じ。 「体育館で跳び箱から落ちて、首の骨を折ったらしい。戸締まりに来た先生が見つけたときには、もう冷たくなっていたそうだよ」 ぼくは、なるべく感情を混ぜないように続けた。事実だけを、机の上に並べるみたいに。 「だけど、あの夜、校門の前に彼女は確かに現れたんだ。ぼくの目には、はっきりと」 誰もいない夜の通学路。彼女の姿は、風みたいにそこにあって、次の瞬間には、もういなかった。 「そのあと、しばらく辺りを歩き回って、名前を呼びながら探したんだ。恵子ちゃん、恵子ちゃんって。でも、見つからなかった」 声に出して名前を呼ぶたびに、空気だけが返事をした。それでも、呼ぶのをやめられなかった。 「仕方なく家に帰って……それで翌朝、学校の連絡網で彼女の死を知ったってわけさ」 話し終えると、言葉が全部、テーブルの上に落ちてしまったような気がした。もう拾い上げることはできない。 ぼくは、カップの底に残っていたコーヒーを一口で飲み干した。すっかり冷めていて、その現実的な苦味だけが、口の中にしつこく残った。 その苦さが、いまここにいる自分を、かろうじて現実につなぎ止めているような気がした。
🆕「恵子ちゃんが亡くなってたって話を聞いたとき、怖くなかった?」 エプロンをしたおねえさんが、少し身を乗り出して、ぼくの顔を覗き込むように言った。その目は、好奇心というより、確認するための目だった。ぼくがどこに立っているのか、ちゃんと確かめようとするみたいに。 「いや……不思議と、怖さはなかったんです」 自分でも、そのことがいちばん不思議だった。 「ああ、恵子ちゃんは最後に、ぼくに会いに来てくれたんだなって、そう思っただけでした。 だから……もっとたくさん話せたらよかったなって。ぼくの話も、聞いてほしかったし」 そこまで言って、ぼくはちらりと螢子さんのほうを見た。彼女は視線を逸らさずに、まっすぐこちらを見ていた。そのまなざしの奥に、ほんのわずかな揺れがある。 「ずっと、恵子ちゃんのことを思い続けてたのね」 螢子さんが静かに訊いた。責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ事実を確かめるみたいに。 「それがね、ずいぶん長いあいだ、すっかり忘れてたんだ」 ぼくは苦笑した。忘れていた、というより、棚の奥に押し込んで、見ないふりをしていただけかもしれない。 「きみを待っているあいだ、少し眠ってしまって……夢に見たんだよ」 そう言うと、テーブルの上の空気がわずかに動いた。 「『家路』のところね。小学校の下校時にスピーカーから流れていたやつ。ドヴォルザークの新世界より。あれを聞きながら、きっと眠って、そのまま夢を見たのかもしれないね」 エプロンをしたおねえさんが、螢子さんの隣でそう言って、静かに微笑んだ。遠くの記憶にそっと触れるみたいな笑みだった。 店の奥で流れているのは、さっきの《モルダウ》の余韻。川の流れと、帰り道の旋律が、どこかで重なっている気がした。 ぼくはふたりの並んだ横顔を見た。同じ音楽を知っていて、同じ言葉を同時に口にすることがある。それでも、そこにある距離は、ほんのわずかに違う。 恵子ちゃんのことを話しているはずなのに、いつのまにか、ぼくたち三人の現在のほうが、ゆっくりと形を変えはじめていた。 ぼくはその変化を、はっきりと感じながら、もう空になったカップに指先を添えた。まだ少しだけ、温もりが残っていた。
「『家路』って言うんですか?」と螢子さんが言った。「わたしはずっと『遠き山に日は落ちて』だと思ってましたけど」 その声には、少しの驚きと、ほんのかすかな懐かしさが混じっていた。まるで、秋の午後の光の中にふと見上げた白い雲みたいに、どこか儚い響きがあった。 エプロンをしたおねえさんは、やさしく微笑んで頷いた。「どちらも、まあ、同じことなんだけどね」 それからふたりは、グリーグのことや《新世界より》のことを話しはじめた。カップの縁に唇を寄せながら、まるで古い喫茶店の時計の針がゆっくりと動くのを見守るみたいに、静かで穏やかな時間が流れていった。 どちらかが紅茶をすする音がして、そのあいだに小さな沈黙が落ちる。でもその沈黙さえも、どこか心地よかった。 ぼくはその光景を見ながら、ふたりの言葉のあいだからこぼれ落ちていく記憶のかけらを拾うような気持ちになっていた。音楽と記憶と、ほんの少しの時間が、三人の間のテーブルの上をやさしく行き来していた。
恵子ちゃんか、とぼくは心の中でつぶやいた。なぜ今になって、ふいに彼女のことを思い出したのだろう。 螢子さんや、エプロンをしたおねえさんが言っていたように、「新世界より」の「家路」を聴きながら眠ってしまったせいかもしれない。たとえば「遠き山に日は落ちて」の旋律が、ぼくの記憶の底に静かに沈んでいた何かを、そっと揺り起こしたのだろう。 恵子ちゃんとぼくは、たしかに幼なじみだった。 毎朝、小学校への道を並んで歩き、帰り道ではランドセルを揺らしながら、くだらないことで笑っていた。ぼくたちは、たぶん周囲があきれるほど、自然にいっしょにいた。 でも――ぼくは本当に恵子ちゃんの御霊を見たのだろうか?確信が、すこしずつ遠のいていくのを感じた。 あの夜、校門の前で彼女の姿を見たと信じてきたけれど、あれはただの夢だったのかもしれない。恵子ちゃんという少女は、たしかに存在していた。何かの事故で亡くなった――跳び箱だったのか、別の原因だったのか、細部はもう曖昧だ。 そうだ。あの夜、ぼくは夢を見ていたのだ。夢の中で恵子ちゃんは、ぼくに微笑んで「さよなら」と言った。 そして翌朝、教室で彼女の死を知らされた。 ただ、それだけのことだったのだ。たぶん――いや、きっと。 そう思おうとすればするほど、胸の奥に小さな波紋が広がっていった。
了
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