恵子ちゃん

きみが何を話していたのか、あるいはぼくが何を答えようとしていたのか、その輪郭が少しずつぼやけていく。店内に流れていたクラシック音楽の旋律は、いつの間にかまぶたの裏にやわらかい毛布みたいに広がっていった。午後の強い陽光と、適温に保たれた店内の空気。さっき飲み干したアイコーヒーの心地よい重さが、眠気となってゆっくりと身体の奥にしみ込んでくるのが分かった。ぼくは半分夢の中に足を突っ込んだまま、籐椅子の背もたれに身を預ける。そのとき、ふっと演奏が途切れた。音が消えた瞬間、ピンと張っていた空気のどこかに小さな穴があいたような、そんな奇妙な感覚が残った。外界の喧騒を遮断していた魔法が、一瞬だけ解けたような静寂。ぼくは目を開けなかったけれど、その理由を直感的に理解していた。 たぶん、白いエプロンをしたおねえさんが、カウンターの奥でレコードを裏返しているんだろう。パチパチという小さなノイズ。レコード針をそっと落とす、指先の慎重な動き。その光景が、うすぼんやりとした意識の中に、ごく自然な色彩を持って浮かび上がってきた。 どうしてそう思ったのか、理由なんていらなかった。ただ、この「カフェテラス」という空間においては、そうだとしか思えなかったんだ。

レコードが裏返り、針が落ちて流れ出したのは、ひどく懐かしい調べだった。どこかで、ずいぶん昔に耳にしたことがあるような気がする。でも、それがいつ、誰と聴いたものなのか、確かな記憶の糸は見つからない。ただ、その旋律がぼくの鼓膜を震わせた瞬間、胸の奥で何かがカチリと音を立てた。意識が、カフェテラスの白いテーブルからゆっくりと剥がれ落ちていく。不意に、小学校の風景が鮮明に浮かび上がった。ワックスの剥げた、埃っぽい廊下の匂い。遠くの校庭で、誰かがぼくの名を呼ぶ声。裏庭の隅、放り出されたみたいに積み上げられた古いタイヤの、鈍く光る黒い輪。見上げると、空は刺すような夕陽に染まっていた。茜色が校舎の影を長く引き延ばし、世界全体を優しく、それでいて少しだけ残酷なほど深く包み込んでいく。それは、時間が一瞬だけ呼吸を止めたような、完全な静けさだった。時間が後ろ向きに流れていくような感覚に身を任せながら、ぼくはしばらく目を閉じたまま、その音楽に耳を澄ませていた。あの頃のぼくは、何を信じて、何を怖がっていたんだっけ。

校門の前で恵子ちゃんを待つ時間は、ぼくにとって一種の「余白」のようなものだった。四月の午後の光は、まるでピントの甘い古い写真みたいに、時間の境界線を少しずつ曖昧にしていく。空気はどこまでもぬるく、風は遠い異国から迷い込んできたみたいに、ぼくのシャツの袖をそっと撫でては、行き先も告げずに通り過ぎていった。恵子ちゃんはまだ来ない。校舎の時計を何度か確認してみたけれど、あまり意味がないことは自分でも分かっていた。彼女が遅れるのはこれが初めてじゃないし、きっと最後でもないだろう。もし理由を尋ねたとしても、彼女は少しだけ視線を泳がせてから「ちょっと考えごとしてたの」と、いつもの穏やかなトーンで答えるはずだ。 そしてたぶん、それは本当なのだ。彼女の頭の中には、ぼくには一生たどり着けないような、広大で静かな思考の庭が広がっている。ぼくは、その庭の入り口で、彼女が戻ってくるのをただ待っているに過ぎない。 「……ふう」 ぼくは手に持っていた文庫本をパタンと閉じ、小さく息を吐いた。物語の続きを追うよりも、今のこの頼りない空気の中に浸っている方が、今の自分には合っている気がしたんだ。 その目の前を、茶トラの猫が一匹、急ぐふうでもなく、当然の権利を行使するように悠々と横切っていく。猫の足取りは軽やかで、世界には急ぐべきことなんて何一つないのだと、ぼくに教えているようだった。 世界は今日も、やけに静かに、そして少しだけぼくを置き去りにしながら回っている。四月の光の中で、ぼくはただ、彼女という「考えごと」の出口がこちらを向くのを、いつまでも待っていた。

先生が校門のところまで足音を忍ばせてやってきた。彼は立ち止まり、まるで空から降ってくる微かな音を拾い集めるように、しばらく耳を澄ます仕草をした。 それからぼくの方を向くと、酷く静かな声で言った。 「音楽は聞こえていないね。もう帰りなさい」 「恵子ちゃんを待ってるんです。彼女がまだ、校舎から出てこないんです」 ぼくは慌ててそう答えた。自分の声が、予想もしなかったほど切迫して、必死な響きを帯びていることに自分自身が一番驚いていた。まるで彼女が校舎の中に閉じ込められているかのような、あるいは彼女という存在そのものが霧の中に消えてしまいそうな、そんな得体の知れない予感に突き動かされていた。 けれど、先生の表情は、春先の空のように曖昧だった。優しく微笑んでいるようにも、すべてを諦めているようにも見える、どこか遠くを見ているような目。 「もう学校には誰もいないよ。恵子さんなら、とっくに帰ったさ」 彼はそう言うと、ぼくの背中にそっと手を添えた。その掌の温度だけが、ぼくをこの現実の世界に繋ぎ止める唯一の錨(いかり)のように感じられた。 「気をつけて帰るんだよ」 促されるまま一歩校門の外へ出ると、先生は音もなく門を閉めた。 鉄格子が重なり、鍵が噛み合う。 「カチャン」という乾いた、けれど決定的な音だけが、時間の底でいつまでも静かに反響していた。 ぼくがさっきまで恵子ちゃんを待っていたあの四月の柔らかな光は、もうどこにもなかった。校門の向こう側は、ぼくの知らない別の時間が流れる場所に変わってしまったかのようだった。 ぼくは、閉ざされた門の前に立ち尽くした。 彼女は本当に、とっくに帰ってしまったのだろうか。それとも、ぼくが見落としてしまった別の出口から、もう新しい世界へと歩き出してしまったのだろうか。 手元の文庫本の重みが、急に増したような気がした。

先生が閉ざした門の向こう側で、ぼくはしばらくのあいだ、校庭の片隅に立ち尽くしていた。夜の空気は少し湿っていて、肌にまとわりつく。どこか遠くで、所在なさげに犬が一声だけ吠えた。恵子ちゃんはいったい、どこへ行ってしまったんだろう。先生の言った「とっくに帰った」という言葉が、重たい澱のように胸の底に溜まっていく。ぼくは逃げ場を求めるように空を見上げた。雲の切れ間から顔を出した月は、まるで出番を終えたばかりの疲れた俳優のような、どこか物憂げな表情でこちらを覗き込んでいた。「ここにいるわよ」不意に、背後から声がした。心臓が跳ねるのを抑えて振り向くと、そこには校門の前に佇む恵子ちゃんの姿があった。 街灯の青白い光に照らされた彼女の顔は、まるで深海から静かに浮かび上がってきた人魚のように、透き通って、どこかこの世のものとは思えないほど白かった。さっきまで追いかけていた「四月の柔らかな光」の中にいた彼女とは、別の生き物みたいに見えた。 「ごめんね、ゆたちゃん。待たせちゃった?」「ううん、大丈夫。……でも、どこ行ってたの?」 ぼくは、震えそうになる声をなんとか整えて訊いた。彼女の顔から、一瞬でも目を離してはいけないような気がしたんだ。 「跳び箱の練習してたの。クラスで跳べないの、わたしだけなんだよね。なんだか、それが急に悔しくなっちゃってさ」 恵子ちゃんはそう言って、ふっと、いつもの彼女らしい幼さの残る笑い方をした。人魚の魔法が解けて、等身大の女の子に戻った瞬間だった。彼女はくるりと踵を返すと、夜の闇に溶け込むようにゆっくりと歩きはじめた。 ぼくも慌ててその横に滑り込む。さっきまでの静寂が嘘のように、二人の靴音がアスファルトに規則正しく響き始めた。 夜風が少しだけ強く吹いて、彼女の髪がぼくの肩をかすめる。ほんの一瞬、指先よりも確かな感触がシャツ越しに伝わってきて、ぼくは言葉を失った。 跳び箱が跳べないという彼女の小さな挫折。それをぼくだけが知っているという事実が、夜の道を行く二人の間に、昨日までとは違う、名付けようのない新しい空気を運んできていた。 

ぼくたちは、田んぼの間を縫うようにして伸びる細い畦道を、言葉もなく並んで歩いていた。空は重たく静かに暮れかけていて、どこか遠くで蛙たちが一斉に鳴きはじめた。グワッ、グワッ、グワッ。それは生き物の声というより、壊れた機械が一定のリズムで空気を震わせているみたいに聞こえた。その規則正しいノイズが、ぼくたちの間の沈黙をいっそう深いものにする。「わたしね、運動神経はそんなに悪くないのよ」恵子ちゃんが、独り言のようにぽつりと言った。「だから大抵のスポーツは、人並みになんとかこなせた。でもね、跳び箱だけはだめだったの。あれだけはどうしても、体が言うことをきかないのよ。跳び箱の前に立つと、自分でも説明できない変な恐怖感が湧いてきて、どうしても足が止まっちゃう」そう言って、彼女はぼくの方を見て少しだけ笑った。でも、その笑みはどこか壊れかけたオルゴールを連想させた。メロディは確かに流れているのに、一番肝心な歯車が少しだけ欠けていて、音が微妙に外れているような、そんな危うさ。「……それで、練習して跳べるようになったの?」「うん。跳べるようになったよ」「ほんとうに?」 ぼくは思わず彼女の顔を覗き込んだ。けれど、そこには「壁を乗り越えた人」が浮かべるはずの晴れやかな喜びはなかった。ただ、薄く曇ったような、あるいは「取り返しのつかない何か」をそっと胸の奥にしまい込んで、無理やり鍵をかけたような、そんな表情だった。ふと見ると、彼女の額の左上に、小さな傷があった。赤く膨らんでいて、たんこぶのように見えた。「その傷、どうしたの?」 彼女はその質問を、まるで聞こえなかったかのように受け流した。「ほんとうよ。クラスで誰も跳べなかった段まで、わたし、跳んだんだから」 そう言って彼女は、今度は少しだけ頬を緩ませた。畦道を抜けると、遠くに民家の灯りがぽつりぽつりと、頼りなく見えてきた。「跳び箱って、一人で用意したの?」 ぼくはふと思い出した疑問を口にした。「ううん。クラスに戻ったらね、タオルを体育館のドアノブにかけたままだったのを思い出したの。それを取りに戻ったら、跳び箱がまだ片付けられないまま、ぽつんと置いてあったのよ」 彼女は、誰にも言えない秘密を打ち明けるような低い声で、ぼくの顔を見ずに言った。「それで?」 ぼくも彼女の顔を見ずに、言葉を継いだ。けれど、返事はなかった。「それからどうしたの、恵子ちゃん?」 やはり返事はない。蛙の鳴き声だけが、ますます機械的な響きを強めて響いている。ぼくは不安になって、少しだけ顔を横に向けた。そこにはもう、恵子ちゃんの姿はなかった。 湿った夜の空気と、どこまでも続く暗い田んぼの影。さっきまで肩に触れていた彼女の髪の気配も、隣で響いていたはずの靴音も、まるで最初からなかったかのように、夜の静寂の中に吸い込まれていた。

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