深夜に自転車に乗って県道を走る少年
螢子が車をゆっくりと発進させた。左手には、路面電車の停車場が見えた。もちろん、最終電車はもうとっくに出ていた。島津は思った。この地点からすべてが始まったのだ、と。蛍子とのこと。如月家とのこと。そして、その後の長い時間。 高校一年の夏、彼はこの場所で地図を広げて確認し、それから自転車のペダルを踏み出したのだった。如月家に向かって。蛍子に向かって。 助手席の窓の外を、島津は静かに眺めていた。夜は深くなりつつあったが、まばらに車の通行はあった。赤いスポーツタイプの車が、滑るように彼らの車を追い越していった。ホンダのクーペ7だった。 「懐かしいな」と、島津は思わず呟いた。それは彼が最初に手に入れた車だった。中古のクーペ7。免許を取りたての頃で、手探りで運転していた。蛍子をドライブに誘ったことがあった。断られた。理由は聞かなかったし、聞けなかった。ただ、それは彼にとって思い出深い出来事だった。 その後、数台の車が通りすぎた。やがて通行がふっと途切れたとき、一台の自転車が前方に現れた。一心に前だけを見て、力いっぱいペダルを漕いでいた。 島津はその姿に見覚えがあった。自転車も、乗っている人物の服装も、何か決定的に懐かしい何かを含んでいた。「少しスピードをあげてもらえないかな」と、島津は螢子に頼んだ。「どうしたの?」と彼女は訊いた。「前を走っている自転車の人間の顔を見てみたいんだ」「自転車?」螢子は怪訝そうに言った。「自転車なんて走ってないけど」そう言いながらも、彼女は少しアクセルを踏んだ。 車が静かに自転車を追い越した。島津は振り返って左後方を見た。その瞬間、息を飲んだ。 自転車を漕いでいたのは、自分自身だった。間違いなかった。あれは高校一年生の頃の彼だった。制服のシャツの袖の長さ、肩にかけた鞄の色、ペダルを踏み込む癖──どれも見覚えがありすぎるほどにあった。 高校一年生の彼は、おそらく如月家に向かっていた。知らない街の道を、まだ会ったことのない誰かに向かって。夜のなかで、それはまるで、時間がほんの少し巻き戻されたような、そんな錯覚だった。
「自転車がどうかしたの?」と、蛍子は言った。声は静かで、どこか夢の続きをなぞるようだった。隣で島津が、小さく息を詰めたような口調で言った。「高校一年の僕が、自転車に乗って走っていたんだ。信じてもらえないと思うけど」彼は少し興奮していた。言葉を抑えきれないように、語尾がふわりと跳ねた。蛍子はそれに答えず、ただ前を見ていた。フロントガラスの向こう側、暗がりに沈みかけている街の輪郭を静かに追っていた。しばらく沈黙が続いた。けれど、その沈黙は重苦しいものではなかった。どこか、遠くから波が届いてくるみたいな、ゆっくりとした気配を含んでいた。 やがて蛍子は、小さく呟くように言った。「明治橋公園に行ってみようか」そして、アクセルをそっと踏み込んだ。 車は音もなく夜の中を滑っていった。彼女の瞳の奥にはまだ、さっきの島津の声が薄く残っていた。過去がふいに重なってくる瞬間というのが、たしかにこの世界にはあるのかもしれない。そして彼女は、たぶんそのことを知っていた。知っていて、あえて何も言わなかった。
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