きみのお父さん

きみの家を訪ねるたびに、玄関の匂いが少しずつ馴染んでいくのを感じていた。靴をそろえて上がると、台所のほうからきみのお母さんの声がして、ぼくは自然と「ただいま」と言いそうになるのをこらえた。 居間でお母さんと話していると、時々きみがふらりと現れて、麦茶の入ったコップを三つ並べてくれたりする。そんなとき、ぼくたちは三人で他愛もない話をした。天気のこととか、学校のこととか、きみが最近読んだ本のこととか。どれも特別じゃないのに、なぜか胸の奥がじんわりと温かくなるような時間だった。 気づけば、ぼくは勝手に、きみがぼくの許嫁みたいな存在になったような気持ちになっていた。もちろんそんな約束をしたわけじゃない。でも、きみの家の空気の中にいると、そういう未来がどこかで静かに準備されているような気がしてしまうのだった。 その気持ちが決定的になったのは、ある日のことだ。お母さんが「ちょっと来て」と言って、きみのお父さんを居間に呼んだ。背筋の伸びた、穏やかな目をした人だった。 「蛍子がおつきあいをしている島津くんですよ」 お母さんはそう言って、ぼくをお父さんに紹介した。 その瞬間、胸の奥で何かが小さく跳ねた。ぼくは慌てて頭を下げながら、心のどこかで「もう後戻りできないところに来てしまったな」と思った。もちろん、誰もそんなことは言っていない。ただ、あの家の空気が、ぼくの立ち位置をそっと変えてしまったのだ。 きみは横で、少し照れたように笑っていた。その笑顔を見たとき、ぼくは自分の中の気持ちが、もう簡単にはほどけない結び目になっていることに気づいた。

きみのお父さんに最初に会った日のことを、ぼくは今でもはっきり思い出せるわけじゃない。ただ、「蛍子のことよろしくお願いしますよ」と言われたような、そんな気配だけが胸の奥に残っている。実際にそう言われたのかどうかは曖昧だ。でも、きみのことを頼む、という空気はたしかにあった。そのあと、縁側に出ると、お父さんは陽の差すところで爪を切っておられた。膝を少し立てて、無造作に。靴下の先が破れていて、足の指がひょいと顔を出していた。それを見つけたきみのお母さんが、少し眉をひそめて注意した。「もう、そんな靴下で……蛍子のボーイフレンドの前なのに」お父さんは爪切りを止めずに、「いいじゃないか」と軽く言った。そして、ふとぼくのほうを見て、「そうだろう?」と笑った。 「はい」ぼくは思わずそう答えた。答えながら、自分がどこに立っているのか、少しだけわからなくなった。 お母さんは、娘の前に立つ父親の姿を整えたかったのだろう。お父さんは、そんなことはどうでもいいと言うように、破れた靴下のまま爪を切り続けた。その姿を見ながら、ぼくはふと、これはぼくを軽んじているのではなく、むしろ逆なのではないかと思った。取り繕わない姿を見せても大丈夫だと、そう思ってくださったのかもしれない。ぼくを信用してくださったのかもしれない。 きみはお父さんに似ている、とそのとき思った。だから、きみのお父さんの顔は今でもはっきり思い出せる。もしきみがお母さん似だったら、お母さんの顔を思い出せたのかもしれない。でも、そうだったら、ぼくはきみのことをここまで好きになっていたかどうか、正直わからない。 縁側に落ちる午後の光と、爪を切る乾いた音と、破れた靴下。あのときの空気は、今でもぼくの中で静かに続いている。

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