ストーカー
島津くんのことを、私ははっきり覚えている。 蛍子が去年の夏、国鉄TにあるK高校の受験セミナーに参加したときに知り合った男の子だった。 帰ってきた蛍子が、夕飯のあとで何気ない顔をしてその名前を口にしたのが最初だったと思う。特別に楽しそうというわけでもなく、かといってどうでもよさそうでもなく、ただ「同じ班だった子」として話していた。けれど、それからしばらくして、家の電話が夜に鳴る回数が少しだけ増えた。蛍子は受話器を持って、自分の部屋に入っていくようになった。 手紙も、ときどき届くようになった。 薄い封筒で、見慣れない男の子の字だった。 私はそれを咎める気にはなれなかったけれど、ただひとつだけ決めていたことがあった。受験が終わるまでは、会うのはだめだということ。蛍子は最初、少しだけ不満そうな顔をしたけれど、結局は何も言わずにうなずいた。 二人はそれでも、電話と手紙で、ささやかなやり取りを続けていたようだった。 冬が過ぎて、受験の結果が出た。 蛍子は志望校に合格した。 けれど、島津くんは残念ながら不合格だったらしい。 そのことを蛍子がいつ、どうやって知ったのか、私は聞かなかった。蛍子も何も言わなかった。ただ、その頃からだったと思う。夜に電話が鳴らなくなった。ポストに男の子の字の封筒が入っていることも、なくなった。 二人のあいだで、何があったのか。 それは私にはわからない。 春が近づいて、蛍子は新しい制服の採寸に行き、通学用の鞄を選び、教科書の重さに少し驚いたりしていた。そういう日常の中で、島津くんの名前は、いつのまにか家の中から消えていった。 まるで、季節がひとつ過ぎていくみたいに。 あれは、1970年の三月のことだった。
1971年の四月。その月の最初の月曜日のことだった。 この春、私立の女子高校に入学したばかりの蛍子が、いつものように夕方、学校から帰ってきた。玄関の戸が開き、靴を脱ぐ音がして、私は台所で味噌汁の火を弱めながら「おかえり」と声をかけた。 蛍子は返事をして、少し間をおいてから、玄関に立ったままこんなことを言った。 「今朝、神宮舎の駅で島津くんを見かけたの。」 私は思わず手を止めたけれど、振り向きはしなかった。鍋のふたを少しずらして、湯気を逃がしながら「そう」とだけ答えた蛍子はまだ靴箱の前に立っている気配だった。 「柱の影に立ってたの。」少し考えるような間があって、蛍子は続けた。「なんだか、隠れるみたいにして。」 それから、少し声を落として言った。 「私が改札を通って歩いてくるのを、見てたんじゃないかな。」 もちろん、それは確かめようのないことだった。朝の駅には人が多いし、柱の陰に立っていた理由なんていくらでも考えられる。それでも蛍子の言い方には、ただの思いつきとは少し違う、静かな確信のようなものが混じっていた。 私はそのとき、どう返事をすればいいのか、少しだけ迷った。 けれど結局、「そうなの」と言っただけだった。蛍子はそれ以上、島津くんのことを話さなかった。鞄を持って自分の部屋に上がり、しばらくしてから制服のまま台所に来て、冷蔵庫の麦茶をコップに注いだ。 学校の話も、友だちの話も、その日はとくにしなかった。 ただ、朝の駅で見かけたというその出来事だけが、玄関のたたきに置き忘れられたように、家の中にしばらく残っていた。 私は味噌汁をよそいながら、ふと去年の三月のことを思い出していた。季節がひとつ過ぎるように終わったはずのことが、思いがけない場所で、もう一度だけ姿を見せたような気がしたからだった。
翌日も、その次の日も、蛍子は同じことを私に告げた。 「島津くんがね、神宮舎駅の柱に隠れていて――」そして少し間を置いてから、「改札を通って歩いていくわたしの姿を、見ていたの。」 最初に聞いたときと、言葉はほとんど変わらなかった。けれど、その言い方が、ほんのわずかずつ違っていた。はじめは確かめるように、ためらいがちだった声が、日を追うごとに、少しずつ輪郭を持っていくようだった。 それが本当に確信に近づいているのか、それとも、自分の中でそういう形に整えているのか、私には判断がつかなかった。 ただ、どちらにも見えた。 蛍子は、靴を脱ぎながら言う日もあれば、鞄を置いてから思い出したように口にする日もあった。けれど、その話をするときだけは、決まって少しだけ視線が宙に浮いて、朝の駅の光景をなぞるようにしていた。 私は、そのたびに手を止めて耳を傾けた。そして、「そう」とか、「そうなの」とか、ごく短い言葉だけを返した。 それ以上、尋ねることはしなかった。 たとえば、本当に島津くんなのか、とか。どうしてそんなところにいたのか、とか。声をかけなかったのか、とか。 そういうことを聞けば、何かが少しだけはっきりするのかもしれなかったけれど、同時に、いま蛍子が抱えているかすかな形のままのものを、壊してしまうような気もした。 蛍子の言葉は、日ごとに確かさを増していくようでいて、その実、どこかで自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。まるで、見たものに意味を与えようとしているように。 あるいは、意味があったはずだと、信じようとしているように。 私はただ、その言葉を静かに受け止めるしかなかった。それが、いまの蛍子にとって、いちばん自然な距離の取り方のように思えたからだった。 朝の駅の柱の影と、そこに立っているかもしれないひとりの男の子の姿が、夕方の台所にまで細く伸びてきて、消えずに残る。そんな日が、いくつか続いた。
ゴールデンウィークが明けて、日常がまた同じ調子で流れはじめたころだった。 夕方、蛍子が帰ってきて、鞄を置き、手を洗ってから、ふとした調子でこう言った。 「四月二十八日以降、神宮舎の駅で島津くんを見かけていないの。」 その言い方は、それまでのように何かを確かめようとする響きでも、言い聞かせるような硬さでもなかった。ほんの少しだけ、力の抜けた、報告のような声音だった。 わたしは台所で包丁を持ったまま、その言葉を聞いた。 そして、ほんの小さな波のようなものが、胸の奥で静かに立った。 あきらめたのかもしれない。 そんな思いが、言葉になるより先に、形だけを持って広がっていった。島津くんが、蛍子のことを、あの柱の陰から見送ることをやめてしまったのではないか、と。 もちろん、それは確かめようのない推測にすぎなかった。もともと、そこに本当に立っていたのかどうかさえ、はっきりしているわけではないのだから。 それでも、その可能性だけが、妙に現実味を帯びて感じられた。 四月の終わりという日付が、なぜかはっきりとした区切りのように思えたからかもしれない。新しい学校、新しい生活が、それぞれの場所で少しずつ形になっていく頃合いだった。 蛍子はそれ以上、何も言わなかった。冷蔵庫から麦茶を出して、いつものようにコップに注ぎ、ひと口飲んだ。 その仕草にも、特別な変化は見えなかった。 けれど、わたしには、何かがひとつ、静かに終わったように思えた。 言葉にするほどの出来事でもなく、誰かがはっきりと手を引いたわけでもない。ただ、ある場所にあったはずの気配が、いつのまにかなくなっている――そんな種類の終わりだった。 わたしは包丁を動かしながら、何も言わなかった。言えば、その終わりに形を与えてしまうような気がしたからだった。
夏休みに入って、蛍子がテニス部の合宿で信州へ出発した日のことだった。 昼下がりの、ひと気のない時間だった。家の中は静かで、時計の針の音だけがやけに耳についた。そんなとき、電話が鳴った。 わたしは手を拭いて、受話器を取った。 「はい」 少し間があって、男の子の声がした。 「……島津です」 その名前を聞いたとき、胸の奥で、ずいぶん前に消えたと思っていたものが、かすかに動いた気がした。 「友達と、澤田大社までサイクリングに来ていて……その帰りなんです。近くまで来たので、友達と別れて、電話を……」 どこか遠慮がちな、けれど丁寧な話し方だった。 それから、少しだけためらうようにして、「蛍子さんは、いらっしゃいますか」と訊ねた。 わたしは、受話器を持ちながら、ほんの一瞬だけ言葉を選んだ。 「蛍子はね、テニス部の合宿で信州に行ってるの。金曜日まで戻らないのよ」 そう言うと、受話器の向こうで小さく息をのむような気配があった。 「……そうですか。突然お電話して、申し訳ございませんでした」 そのまま、電話を切ろうとする気配が伝わってきた。 その瞬間だった。 わたしは、ほとんど考えるより先に、口を開いていた。 「蛍子はいないけど、遊びにいらっしゃいよ」 自分の声が、思っていたよりもやわらかく響いた。 「私もね、島津くんの顔を見てみたいから」 言い終えてから、ほんの少しだけ、自分でも驚いた。どうしてそんなことを言ったのか、はっきりとはわからなかった。ただ、自然に、そこにあった言葉を拾い上げたような感じだった。 受話器の向こうで、島津くんはすぐには返事をしなかった。 その沈黙のあいだに、夏の午後の静けさが、電話線を伝ってこちら側にまで流れ込んでくるようだった。 あの春、駅の柱の陰に立っていたかもしれない男の子と、いまこの受話器の向こうにいる男の子が、同じひとであることを、わたしはようやく現実として受け止めていた。
チャイムが鳴って、玄関のドアを開けた。 立っていたのは、思っていたよりも背の高い男の子だった。少し照れたように会釈をして、「こんにちは」と言った。その声を聞いたとき、受話器の向こうにいた声と、ようやくひとつに重なった。 ダイニングに案内すると、彼はどこかぎこちない足取りで、壁沿いの二人がけのソファーに腰を下ろした。わたしは台所でカルピスを作り、グラスに注いで、小さな木のテーブルに置いた。 それから、ソファーの横にあった丸椅子を引き寄せて、テーブルを挟んで真正面に座った。 「はじめまして。蛍子の母です。よろしくお願いします」 そう言って顔を見ると、よく日に焼けていた。まだどこか少年の輪郭を残しながら、その焼けた肌だけが、少しだけ季節を先に進めているように見えた。 「はじめまして、島津 温です。こちらこそよろしくお願いします。突然お邪魔して申し訳ありません」 丁寧な言葉だった。 「堅苦しい挨拶はなしですよ。さあ、飲んでください」 そう言って、わたしはカルピスのグラスに手を伸ばした。 「いただきます」 島津くんは、両手でそっとグラスに触れた。 近くで見ると、日に焼けた頬のあたりに、うっすらとまだらな赤みが残っていた。 「よく日焼けしているけど、高校で何かクラブに入ったの?」 そう尋ねると、彼は少しだけ背筋を伸ばして、「はい。ラグビー部に入りました。昨日、合宿から帰ってきました」と答えた。 蛍子と入れ違いだったのね、と、心の中で思った。わざわざ言葉にするほどのことでもないように感じて、そのままにした。 しばらく、グラスの中の氷が小さく鳴る音だけが、あいだにあった。 ふと、どうしてラグビーなんていう、あんなに体をぶつけるようなスポーツを選んだのか、聞いてみたくなった。 「どうしてラグビーを?」 そう言うと、島津くんは一瞬、視線を落とした。 それから、「蛍子さんに……」と口にして、そこで言葉を止めた。 そのまま、続きは出てこなかった。 わたしは何も言わずに、少しだけ待った。けれど、島津くんはグラスの中を見つめたまま、もう口を開こうとはしなかった。 言いかけた言葉だけが、テーブルの上に置かれたままのように、静かに残っていた。
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