ストーカー
4月に入って最初の月曜日、新しい生活の始まりだ。この春、私立の女子高校の門をくぐった娘の蛍子が、まだ制服のまま、玄関を開けるなり駆け寄ってきた。 「ただいま! お母さん、聞いて!」 弾んだ声で、彼女は私に告げた。朝の通学途中の出来事だという。 「ね、今日、神宮舎の駅でね、島津くんを見かけたの」 島津くん――その名前を聞くのは久しぶりだった。彼は、蛍子が中学3年の去年の夏、あの殺伐とした高校受験セミナーで知り合った男の子だ。お互いに志望校は違ったけれど、あの頃の蛍子にとって、受験の重圧から少しだけ解放してくれる、特別な話し相手だったのだろう。 蛍子は、どこか落ち着かない様子で、話し続けた。 「それがね、なんか変だったの。島津くん、駅の柱の影に、隠れるみたいに立っていて……」 彼女はそう言って、改札を通り抜けてくる私の方を、じっと見ていたような気がする、と付け加えた。まるで、蛍子が改札を通って、ホームへと歩いていく姿を、確認するように、あるいは見送るように。 柱の影から、そっとこちらを窺う視線。それは、単なる偶然の再会というには、あまりに遠慮深く、そして詮索のようで、微妙な緊張をはらんでいる。 蛍子の新しい高校生活が始まって、彼女の周りの世界は、確かに動き始めている。その動きの中で、かつての夏の記憶である島津くんの存在が、こうしてひっそりと、しかし確かな輪郭を持って立ち現れた。 私立の女子高生になった蛍子と、柱の影に立つ島津くん。 彼らの間に、あの夏にはなかった、言葉にならない感情の微細な変化が、もう始まっているのかもしれない。母親として、私はそっと、娘の頬の高揚と、どこか戸惑いが混じった瞳の輝きを見つめた。
最初の月曜日のあの報告は、まだ「へえ、偶然ね」と笑って流せる、ささやかな春のハプニングという色彩が強かった。 しかし、火曜日の夕方。そして、その翌日の水曜日の晩。帰宅した娘の蛍子は、私に告げた。 「今日もいたよ。神宮舎の駅の、あの柱の影に」 「今日も、私が改札を通って、ホームの方へ歩いていくのを、じっと見てた」 その声は、もう初日のような驚きではなく、どこか定められた儀式を口にするような、落ち着きと、ほんの少しの照れを含んでいた。 たった三日。たった三日連続で、彼はそこに立っていた。それはもはや、偶然などではない。島津くんは、蛍子が新しい生活へ足を踏み入れたのを知りながら、**毎日、そこに「居る」**という選択をしているのだ。 私立の女子高生となった蛍子は、昨日とは違う、少し大人びた制服に身を包み、凛とした足取りで改札を抜けていく。そして、柱の影に隠れている島津くんは、その新しい世界に、直接は触れられない。 彼は、一歩前に踏み出して「おはよう」と言う勇気を持てないのだろうか。それとも、新しい生活を始めた蛍子の邪魔をしてはいけないと、遠慮しているのだろうか。どちらにしても、彼の行動は、あまりに控えめで、切実に、**二人の間の「距離」**を物語っていた。 そして、その「見られている」という事実を、毎日律儀に私に報告してくる蛍子の方もまた、彼の存在を心のどこかで求めている証拠のように思えた。嫌なら、見てもいないふりをして、私にも話さないはずだ。 駅の柱の影という、絶妙な「境界線」。改札という、新しい世界への「入り口」。その間で、二人の若い魂は、言葉を交わす代わりに、視線と沈黙という、あまりに繊細な手段で繋がり続けている。 私は、娘の報告を聞きながら、静かに思う。この、緊張と期待に満ちた、静かな繋がりこそが、蛍子の新しい春の、最も純粋で、最も甘酸っぱい「日常」になりつつあるのだと。母親として、私はただ、この微妙な人間関係の揺らぎを、見守るばかりだ。
賑やかだったゴールデンウィークが過ぎ去り、学校生活が再び日常のペースを取り戻し始めた、ある日のことだった。 夕食の準備をしている私の背中に向かって、娘の蛍子が、ぽつりと告げた。その声は、春先の弾むような調子とは違い、どこか余韻を帯びていた。 「お母さん。ね、島津くんのことなんだけど」 私は手を止め、振り返った。 「ええ、どうしたの?」 「あのね、4月28日を最後に、もう神宮舎の駅で見かけなくなったの」 4月28日。それは、大型連休が始まる直前の金曜日だ。 あの月曜日から始まった、駅の柱の影に隠れて、改札を抜ける蛍子を毎日見つめるという、島津くんの静かなルーティンが、突然、途切れてしまった。 私は、胸の奥に、ある種の納得に近い感情が広がっていくのを感じた。 彼は、諦めたのだ。 春休みが明け、新しい環境で日々を過ごす蛍子は、確実に遠い存在になっていったのだろう。毎朝のあの柱の影からの視線は、彼がその距離を測り、どうにか踏みとどまろうとする、必死の努力の証だったのかもしれない。 そして、ゴールデンウィークという、互いに完全に断絶した長い時間が、彼に決断をさせたのだ。 もう、毎日影から見つめるような、切ない関係は続けられない。彼女の新しい世界に踏み込むこともできないのなら、いっそ完全に身を引こう、と。 私は、蛍子の横顔を静かに見つめた。彼女の瞳には、失恋という言葉で片付けるにはあまりに静かで、けれど確かな空白が宿っているように見えた。 毎朝、そこに「いるはず」だった、目には見えないけれど、確かに彼女の通学路に存在していた島の灯台のような存在が、音もなく消えてしまったのだ。 「そっか……。もう、見かけないのね」 私はそれ以上何も言わなかった。言葉は、この静かな変化を捉えるには、あまりに粗暴にすぎる気がしたからだ。 島津くんは、彼女を諦めた。そして、蛍子の世界は、たった一人の男の子の撤退によって、静かに、そして少しだけ寂しく、次の段階へと進もうとしていた。
あの夏の受験セミナーで知り合ってから、蛍子と島津くんの交際は、ずっと電話と手紙のやりとりが中心だった。 なぜなら、私が高校受験が終わるまでは、直接会うことを固く禁じていたからだ。まだ幼い彼らが、受験という人生の岐路で集中力を乱すことを、母親として恐れたからに他ならない。それは、親のエゴだったかもしれないが、蛍子は私の言葉を守ってくれた。 二人は、声と文字を通じて、互いの存在を確認し合った。そのやりとりが、張り詰めた受験勉強の中で、蛍子にとってどれほどの心の支えになっていたか、私にも分かっていた。 そして、運命の日。 蛍子は、厳しい受験を乗り越え、見事に志望校に合格した。 一方で、島津くんは不合格だった。 その後の二人の間で、一体何が交わされたのか、私には知る由もない。合格と不合格という、あまりにも対照的な結果が、二人の間にどんな影を落としたのか。 私が知っているのは、ただ一つの結果だけだ。 受験が終わって、会うことの禁が解かれてからも、娘の蛍子が島津くんと電話で話すことはなくなった。夜、リビングで勉強する蛍子の傍らで、あの軽やかな着信音が鳴ることは、もう二度とない。 そして、あの、可愛らしい筆跡で綴られた手紙が、島津くんから届くこともなくなった。 私が「会うこと」を禁じた時よりも、二人の間にある溝は、もっと深く、静かに広がってしまったようだった。物理的な距離ではなく、進路という、残酷な現実が、彼らを隔ててしまったのだ。 新しい春を迎える前の、冬の終わり。あの頃、蛍子は合格の喜びに満ちていたが、その影で、彼女たちの特別な繋がりは、音もなく、静かに終焉を迎えていた。 合格という輝かしい結果の裏側に、娘の心に宿ったかもしれない、誰かを失った痛みを、私は静かに見つめることしかできなかった。
それは、蛍子がテニス部の合宿で信州へと出発した、夏休みのある日のことでした。娘がいなくなった家の中は、どこかひっそりとしていて、開け放した窓から入り込む蝉時雨だけが、部屋の静寂をかき乱していました。そんな昼下がり、不意に鳴り響いた電話の音に、私は少しだけ驚きながら受話器を取りました。「……もしもし」「あの、島津です。突然お電話して申し訳ありません」受話器の向こうから聞こえてきたのは、少年の幼さをわずかに残しながらも、どこか凛とした響きを持つ声でした。島津くんでした。彼は、友達と澤田大社までサイクリングに来た帰りなのだと言いました。近くまで来たので、友達と別れて、思い切って電話をかけてみたのだと。「蛍子さんは、いらっしゃいますか」その問いかけには、期待と、それ以上に大きなためらいが混じっているように感じられました。「蛍子はね、今日からテニス部の合宿に行っていて、金曜日まで戻らないのよ」「……そうですか。急にお電話して、本当にすみませんでした」申し訳なさそうに、そしてどこか力なく、彼は電話を切ろうとしました。神宮舎の駅で、柱の影から娘を見送っていた彼。電話と手紙だけで、私の言いつけを健気に守り続けていた彼。その彼が、今、すぐ近くまで来ている。「蛍子はいないけれど、遊びにいらっしゃいよ」自分でも驚くほど、自然にその言葉が口をついて出ました。「私も、一度島津くんのお顔を見てみたいと思っていたから」合格と不合格が二人を分かち、見えない壁が築かれてしまったあの日から、初めて交わした「本当の」会話でした。私は、蛍子のいない居間で、これからやってくる一人の少年のことを思いました。彼がどんな表情で自転車を漕ぎ、どんな思いでこの家のインターホンを押すのか。真夏の陽光が照りつけるアスファルトを、彼が今、こちらに向かって走ってきている。娘のいない家で、私と彼だけの不思議な時間が始まろうとしていました。
ピンポーン、と控えめなチャイムが静かな家の中に響きました。玄関のドアを開けると、そこには真夏の陽光を背負った一人の少年が立っていました。私は彼をダイニングへと案内しました。壁際に置かれた二人掛けのソファーを勧めると、彼は所在なげに、けれど丁寧に腰を下ろしました。私は台所に立ち、冷蔵庫から冷えた水を取り出してカルピスを作りました。氷がグラスの淵に当たって涼やかな音を立てます。ソファーの前の小さな木製テーブルにグラスを置くと、私はその横にあった丸椅子を引き寄せ、テーブルを挟んで彼の真正面に座り直しました。逃げも隠れもしない。今日、私はこの子の目を見て話そうと思ったのです。「はじめまして。蛍子の母です。よろしくお願いしますね」「はじめまして、島津温です。こちらこそよろしくお願いします。……突然お邪魔して、本当に申し訳ありません」日焼けした顔を少し火照らせて、彼は深々と頭を下げました。「堅苦しい挨拶はなしですよ。さあ、飲んでください」私が促すと、彼は「いただきます」と小さく言って、大きな手でグラスを包み込むように持ちました。「よく日焼けしているけれど、高校で何かクラブに入ったの?」「はい。ラグビー部に入りました。昨日、合宿から帰ってきたばかりなんです」ラグビー部。あの受験セミナーで知り合った頃の、どこか線の細かった少年のイメージからは想像もつかない、激しいスポーツの名前でした。蛍子と入れ違いで合宿から帰ってきたというのも、何だかこの二人の距離を物語っているようで、少しだけ胸が疼きました。「どうして、そんなハードなスポーツを選んだの?」ふとした疑問でした。なぜ、あえて自分を追い込むような場所を選んだのか。私の問いに、彼はグラスを見つめたまま、ぽつりと答えました。「それは……蛍子さんに……」そこで、彼は言葉を切りました。唇をぎゅっと結び、何かを飲み込むようにして、彼は黙り込んでしまいました。セミの鳴き声だけが、開け放した窓から波のように押し寄せてきます。私は、彼の沈黙を待つ間、その日焼けした逞しい腕を見つめていました。「蛍子さんに、認められたかったから」彼が言い淀んだ言葉の続きが、私の心にはっきりと届いたような気がしました。合格した彼女と、不合格だった自分。その間にある「差」を、彼はラグビーという過酷な競技で自分を鍛え上げることで、必死に埋めようとしていたのではないでしょうか。彼女に相応しい自分になりたい。あるいは、今の自分でも胸を張って彼女の前に立ちたい。彼の沈黙は、どんな言葉よりも雄弁に、娘への真っ直ぐで切実な想いを語っているように見えました。私は、もう氷が溶け始めたカルピスのグラスを見つめながら、目の前に座る少年の不器用すぎる誠実さに、ただ静かに心を打たれていました。
島津くんは、合宿での出来事をぽつりぽつりと話し始めました。それは、私が想像していた以上に過酷で、どこか滑稽で、けれどひどく切実な物語でした。「一年生の部員が僕と、あともう一人のクラスメイトを除いて、全員で逃亡を図ったんです」「えっ、全員で?」思わず聞き返すと、彼は困ったように眉を下げて頷きました。真夏の厳しい練習に耐えかねた少年たちが、結託して合宿所を抜け出したのだといいます。けれど、結局は先輩たちに一人ひとり見つかって、連れ戻されてしまったのだと。「……本当は、僕も逃げ出したかったんです」彼はグラスの縁をなぞりながら、自嘲気味に笑いました。「でも、逃げようと思った時には、もうみんながいなくなっていて。逃げ出すチャンスを逸してしまっただけなんです」その正直な告白が、なんだかとても彼らしくて、私は思わず小さく吹き出してしまいました。チャンスを逃して、一人取り残されてしまった。でも、その「取り残された」という結果が、彼を最後までその場に踏みとどまらせたのです。「でも、えらいわ。どんな理由であっても、あなたは逃げ出さなかった。それは立派なことよ」私はそう答えてから、少しの間を置きました。セミの声が一段と高く響き、部屋の中の空気がふっと重さを増したような気がしました。私は丸椅子に座ったまま、テーブルを挟んで彼の目を真っ直ぐに見つめ、これまでにない真剣な口調で告げました。「島津くん。ぜったいに、ラグビーをやめたらだめよ」彼は驚いたように目を見開きました。なぜ私がそんなことを言ったのか、自分でも明確な理由は分かりませんでした。ただ、なんとなくそう思ったのです。泥にまみれて、楕円のボールを追いかける彼の姿こそが、今、離れた場所にいる蛍子の「夢」そのものなのではないか、と。彼がラグビーを続けることは、彼女が女子高生として新しい世界を歩むことと、どこか深い場所で対(つい)になっている。そんな確信がありました。「……はい」彼は、短く、けれど力強く答えました。その瞳には、先ほどまでの迷いは消え、静かな覚悟が宿っていました。これが、私と島津くんとの、最初の出会いでした。カルピスの甘い後味と、溶けきった氷の音。そして、一人の少年に託した、娘の、そして私自身の淡い祈り。あの夏の昼下がりの光景は、その後に続く長い歳月の中でも、決して色褪せることのない鮮烈な記憶として、私の胸に刻まれることになったのです。
玄関先まで彼を送っていった時、私は胸の内にあった言葉を、できるだけ柔らかな声で口にしました。「島津くん、蛍子のことを……よろしくね」少しだけ間を置いて、こう付け加えました。「今度は、蛍子がいる時にまたいらっしゃい。いつでも歓迎するから」受験が終わるまで、私は二人を引き裂くような真似をしてきました。けれど、今日この子の実直な横顔を見て、ようやく心の底から「この二人なら」と認めてあげたいと思ったのです。「……ありがとうございます」島津くんはそう言って、深く頭を下げました。けれど、その感謝の言葉とは裏腹に、私の胸にはひどく冷ややかな確信が入り混じっていました。母親としての勘が告げているのです。当の蛍子には、もう彼と付き合い続ける気はないのではないか。そして、島津くん自身も、自分がもう二度とこの家の敷居を跨ぐことはないだろうと、どこかで悟っているのではないか。島津くんは、なかなか頭を上げませんでした。屈めた背中が、微かに震えているように見えました。今、顔を上げたら、堪えきれない涙がこぼれてしまう。それを私に見せたくなくて、彼は沈黙のまま、じっと地面を見つめている……。そんな彼の少年らしい意地が、痛いほど伝わってきました。私は玄関の外まで一歩踏み出し、今度は私の方から彼に頭を下げました。「蛍子のこと、よろしくお願いします」一人の大人として、娘がかつて想い、今も彼に大きな影響を与え続けている存在であることに、敬意を込めて。島津くんは、ようやく顔を上げると、消え入りそうな声で「はい」と言い、もう一度頭を下げました。彼は自転車に跨り、ゆっくりとペダルを漕ぎ始めました。「さようなら、島津くん」後ろ姿に声をかけると、彼は慌てたように自転車を停め、振り返りました。「……さようなら」その絞り出すような声を聞いたとき、私は胸を突かれました。彼は、蛍子だけでなく、私とももう二度と会えないのだと、そう確信して別れを告げているのだと感じたからです。アスファルトに落ちた濃い夏影を切り裂くように、自転車は遠ざかっていきました。
最初の月曜日のあの報告は、まだ「へえ、偶然ね」と笑って流せる、ささやかな春のハプニングという色彩が強かった。 しかし、火曜日の夕方。そして、その翌日の水曜日の晩。帰宅した娘の蛍子は、私に告げた。 「今日もいたよ。神宮舎の駅の、あの柱の影に」 「今日も、私が改札を通って、ホームの方へ歩いていくのを、じっと見てた」 その声は、もう初日のような驚きではなく、どこか定められた儀式を口にするような、落ち着きと、ほんの少しの照れを含んでいた。 たった三日。たった三日連続で、彼はそこに立っていた。それはもはや、偶然などではない。島津くんは、蛍子が新しい生活へ足を踏み入れたのを知りながら、**毎日、そこに「居る」**という選択をしているのだ。 私立の女子高生となった蛍子は、昨日とは違う、少し大人びた制服に身を包み、凛とした足取りで改札を抜けていく。そして、柱の影に隠れている島津くんは、その新しい世界に、直接は触れられない。 彼は、一歩前に踏み出して「おはよう」と言う勇気を持てないのだろうか。それとも、新しい生活を始めた蛍子の邪魔をしてはいけないと、遠慮しているのだろうか。どちらにしても、彼の行動は、あまりに控えめで、切実に、**二人の間の「距離」**を物語っていた。 そして、その「見られている」という事実を、毎日律儀に私に報告してくる蛍子の方もまた、彼の存在を心のどこかで求めている証拠のように思えた。嫌なら、見てもいないふりをして、私にも話さないはずだ。 駅の柱の影という、絶妙な「境界線」。改札という、新しい世界への「入り口」。その間で、二人の若い魂は、言葉を交わす代わりに、視線と沈黙という、あまりに繊細な手段で繋がり続けている。 私は、娘の報告を聞きながら、静かに思う。この、緊張と期待に満ちた、静かな繋がりこそが、蛍子の新しい春の、最も純粋で、最も甘酸っぱい「日常」になりつつあるのだと。母親として、私はただ、この微妙な人間関係の揺らぎを、見守るばかりだ。
賑やかだったゴールデンウィークが過ぎ去り、学校生活が再び日常のペースを取り戻し始めた、ある日のことだった。 夕食の準備をしている私の背中に向かって、娘の蛍子が、ぽつりと告げた。その声は、春先の弾むような調子とは違い、どこか余韻を帯びていた。 「お母さん。ね、島津くんのことなんだけど」 私は手を止め、振り返った。 「ええ、どうしたの?」 「あのね、4月28日を最後に、もう神宮舎の駅で見かけなくなったの」 4月28日。それは、大型連休が始まる直前の金曜日だ。 あの月曜日から始まった、駅の柱の影に隠れて、改札を抜ける蛍子を毎日見つめるという、島津くんの静かなルーティンが、突然、途切れてしまった。 私は、胸の奥に、ある種の納得に近い感情が広がっていくのを感じた。 彼は、諦めたのだ。 春休みが明け、新しい環境で日々を過ごす蛍子は、確実に遠い存在になっていったのだろう。毎朝のあの柱の影からの視線は、彼がその距離を測り、どうにか踏みとどまろうとする、必死の努力の証だったのかもしれない。 そして、ゴールデンウィークという、互いに完全に断絶した長い時間が、彼に決断をさせたのだ。 もう、毎日影から見つめるような、切ない関係は続けられない。彼女の新しい世界に踏み込むこともできないのなら、いっそ完全に身を引こう、と。 私は、蛍子の横顔を静かに見つめた。彼女の瞳には、失恋という言葉で片付けるにはあまりに静かで、けれど確かな空白が宿っているように見えた。 毎朝、そこに「いるはず」だった、目には見えないけれど、確かに彼女の通学路に存在していた島の灯台のような存在が、音もなく消えてしまったのだ。 「そっか……。もう、見かけないのね」 私はそれ以上何も言わなかった。言葉は、この静かな変化を捉えるには、あまりに粗暴にすぎる気がしたからだ。 島津くんは、彼女を諦めた。そして、蛍子の世界は、たった一人の男の子の撤退によって、静かに、そして少しだけ寂しく、次の段階へと進もうとしていた。
あの夏の受験セミナーで知り合ってから、蛍子と島津くんの交際は、ずっと電話と手紙のやりとりが中心だった。 なぜなら、私が高校受験が終わるまでは、直接会うことを固く禁じていたからだ。まだ幼い彼らが、受験という人生の岐路で集中力を乱すことを、母親として恐れたからに他ならない。それは、親のエゴだったかもしれないが、蛍子は私の言葉を守ってくれた。 二人は、声と文字を通じて、互いの存在を確認し合った。そのやりとりが、張り詰めた受験勉強の中で、蛍子にとってどれほどの心の支えになっていたか、私にも分かっていた。 そして、運命の日。 蛍子は、厳しい受験を乗り越え、見事に志望校に合格した。 一方で、島津くんは不合格だった。 その後の二人の間で、一体何が交わされたのか、私には知る由もない。合格と不合格という、あまりにも対照的な結果が、二人の間にどんな影を落としたのか。 私が知っているのは、ただ一つの結果だけだ。 受験が終わって、会うことの禁が解かれてからも、娘の蛍子が島津くんと電話で話すことはなくなった。夜、リビングで勉強する蛍子の傍らで、あの軽やかな着信音が鳴ることは、もう二度とない。 そして、あの、可愛らしい筆跡で綴られた手紙が、島津くんから届くこともなくなった。 私が「会うこと」を禁じた時よりも、二人の間にある溝は、もっと深く、静かに広がってしまったようだった。物理的な距離ではなく、進路という、残酷な現実が、彼らを隔ててしまったのだ。 新しい春を迎える前の、冬の終わり。あの頃、蛍子は合格の喜びに満ちていたが、その影で、彼女たちの特別な繋がりは、音もなく、静かに終焉を迎えていた。 合格という輝かしい結果の裏側に、娘の心に宿ったかもしれない、誰かを失った痛みを、私は静かに見つめることしかできなかった。
それは、蛍子がテニス部の合宿で信州へと出発した、夏休みのある日のことでした。娘がいなくなった家の中は、どこかひっそりとしていて、開け放した窓から入り込む蝉時雨だけが、部屋の静寂をかき乱していました。そんな昼下がり、不意に鳴り響いた電話の音に、私は少しだけ驚きながら受話器を取りました。「……もしもし」「あの、島津です。突然お電話して申し訳ありません」受話器の向こうから聞こえてきたのは、少年の幼さをわずかに残しながらも、どこか凛とした響きを持つ声でした。島津くんでした。彼は、友達と澤田大社までサイクリングに来た帰りなのだと言いました。近くまで来たので、友達と別れて、思い切って電話をかけてみたのだと。「蛍子さんは、いらっしゃいますか」その問いかけには、期待と、それ以上に大きなためらいが混じっているように感じられました。「蛍子はね、今日からテニス部の合宿に行っていて、金曜日まで戻らないのよ」「……そうですか。急にお電話して、本当にすみませんでした」申し訳なさそうに、そしてどこか力なく、彼は電話を切ろうとしました。神宮舎の駅で、柱の影から娘を見送っていた彼。電話と手紙だけで、私の言いつけを健気に守り続けていた彼。その彼が、今、すぐ近くまで来ている。「蛍子はいないけれど、遊びにいらっしゃいよ」自分でも驚くほど、自然にその言葉が口をついて出ました。「私も、一度島津くんのお顔を見てみたいと思っていたから」合格と不合格が二人を分かち、見えない壁が築かれてしまったあの日から、初めて交わした「本当の」会話でした。私は、蛍子のいない居間で、これからやってくる一人の少年のことを思いました。彼がどんな表情で自転車を漕ぎ、どんな思いでこの家のインターホンを押すのか。真夏の陽光が照りつけるアスファルトを、彼が今、こちらに向かって走ってきている。娘のいない家で、私と彼だけの不思議な時間が始まろうとしていました。
ピンポーン、と控えめなチャイムが静かな家の中に響きました。玄関のドアを開けると、そこには真夏の陽光を背負った一人の少年が立っていました。私は彼をダイニングへと案内しました。壁際に置かれた二人掛けのソファーを勧めると、彼は所在なげに、けれど丁寧に腰を下ろしました。私は台所に立ち、冷蔵庫から冷えた水を取り出してカルピスを作りました。氷がグラスの淵に当たって涼やかな音を立てます。ソファーの前の小さな木製テーブルにグラスを置くと、私はその横にあった丸椅子を引き寄せ、テーブルを挟んで彼の真正面に座り直しました。逃げも隠れもしない。今日、私はこの子の目を見て話そうと思ったのです。「はじめまして。蛍子の母です。よろしくお願いしますね」「はじめまして、島津温です。こちらこそよろしくお願いします。……突然お邪魔して、本当に申し訳ありません」日焼けした顔を少し火照らせて、彼は深々と頭を下げました。「堅苦しい挨拶はなしですよ。さあ、飲んでください」私が促すと、彼は「いただきます」と小さく言って、大きな手でグラスを包み込むように持ちました。「よく日焼けしているけれど、高校で何かクラブに入ったの?」「はい。ラグビー部に入りました。昨日、合宿から帰ってきたばかりなんです」ラグビー部。あの受験セミナーで知り合った頃の、どこか線の細かった少年のイメージからは想像もつかない、激しいスポーツの名前でした。蛍子と入れ違いで合宿から帰ってきたというのも、何だかこの二人の距離を物語っているようで、少しだけ胸が疼きました。「どうして、そんなハードなスポーツを選んだの?」ふとした疑問でした。なぜ、あえて自分を追い込むような場所を選んだのか。私の問いに、彼はグラスを見つめたまま、ぽつりと答えました。「それは……蛍子さんに……」そこで、彼は言葉を切りました。唇をぎゅっと結び、何かを飲み込むようにして、彼は黙り込んでしまいました。セミの鳴き声だけが、開け放した窓から波のように押し寄せてきます。私は、彼の沈黙を待つ間、その日焼けした逞しい腕を見つめていました。「蛍子さんに、認められたかったから」彼が言い淀んだ言葉の続きが、私の心にはっきりと届いたような気がしました。合格した彼女と、不合格だった自分。その間にある「差」を、彼はラグビーという過酷な競技で自分を鍛え上げることで、必死に埋めようとしていたのではないでしょうか。彼女に相応しい自分になりたい。あるいは、今の自分でも胸を張って彼女の前に立ちたい。彼の沈黙は、どんな言葉よりも雄弁に、娘への真っ直ぐで切実な想いを語っているように見えました。私は、もう氷が溶け始めたカルピスのグラスを見つめながら、目の前に座る少年の不器用すぎる誠実さに、ただ静かに心を打たれていました。
島津くんは、合宿での出来事をぽつりぽつりと話し始めました。それは、私が想像していた以上に過酷で、どこか滑稽で、けれどひどく切実な物語でした。「一年生の部員が僕と、あともう一人のクラスメイトを除いて、全員で逃亡を図ったんです」「えっ、全員で?」思わず聞き返すと、彼は困ったように眉を下げて頷きました。真夏の厳しい練習に耐えかねた少年たちが、結託して合宿所を抜け出したのだといいます。けれど、結局は先輩たちに一人ひとり見つかって、連れ戻されてしまったのだと。「……本当は、僕も逃げ出したかったんです」彼はグラスの縁をなぞりながら、自嘲気味に笑いました。「でも、逃げようと思った時には、もうみんながいなくなっていて。逃げ出すチャンスを逸してしまっただけなんです」その正直な告白が、なんだかとても彼らしくて、私は思わず小さく吹き出してしまいました。チャンスを逃して、一人取り残されてしまった。でも、その「取り残された」という結果が、彼を最後までその場に踏みとどまらせたのです。「でも、えらいわ。どんな理由であっても、あなたは逃げ出さなかった。それは立派なことよ」私はそう答えてから、少しの間を置きました。セミの声が一段と高く響き、部屋の中の空気がふっと重さを増したような気がしました。私は丸椅子に座ったまま、テーブルを挟んで彼の目を真っ直ぐに見つめ、これまでにない真剣な口調で告げました。「島津くん。ぜったいに、ラグビーをやめたらだめよ」彼は驚いたように目を見開きました。なぜ私がそんなことを言ったのか、自分でも明確な理由は分かりませんでした。ただ、なんとなくそう思ったのです。泥にまみれて、楕円のボールを追いかける彼の姿こそが、今、離れた場所にいる蛍子の「夢」そのものなのではないか、と。彼がラグビーを続けることは、彼女が女子高生として新しい世界を歩むことと、どこか深い場所で対(つい)になっている。そんな確信がありました。「……はい」彼は、短く、けれど力強く答えました。その瞳には、先ほどまでの迷いは消え、静かな覚悟が宿っていました。これが、私と島津くんとの、最初の出会いでした。カルピスの甘い後味と、溶けきった氷の音。そして、一人の少年に託した、娘の、そして私自身の淡い祈り。あの夏の昼下がりの光景は、その後に続く長い歳月の中でも、決して色褪せることのない鮮烈な記憶として、私の胸に刻まれることになったのです。
玄関先まで彼を送っていった時、私は胸の内にあった言葉を、できるだけ柔らかな声で口にしました。「島津くん、蛍子のことを……よろしくね」少しだけ間を置いて、こう付け加えました。「今度は、蛍子がいる時にまたいらっしゃい。いつでも歓迎するから」受験が終わるまで、私は二人を引き裂くような真似をしてきました。けれど、今日この子の実直な横顔を見て、ようやく心の底から「この二人なら」と認めてあげたいと思ったのです。「……ありがとうございます」島津くんはそう言って、深く頭を下げました。けれど、その感謝の言葉とは裏腹に、私の胸にはひどく冷ややかな確信が入り混じっていました。母親としての勘が告げているのです。当の蛍子には、もう彼と付き合い続ける気はないのではないか。そして、島津くん自身も、自分がもう二度とこの家の敷居を跨ぐことはないだろうと、どこかで悟っているのではないか。島津くんは、なかなか頭を上げませんでした。屈めた背中が、微かに震えているように見えました。今、顔を上げたら、堪えきれない涙がこぼれてしまう。それを私に見せたくなくて、彼は沈黙のまま、じっと地面を見つめている……。そんな彼の少年らしい意地が、痛いほど伝わってきました。私は玄関の外まで一歩踏み出し、今度は私の方から彼に頭を下げました。「蛍子のこと、よろしくお願いします」一人の大人として、娘がかつて想い、今も彼に大きな影響を与え続けている存在であることに、敬意を込めて。島津くんは、ようやく顔を上げると、消え入りそうな声で「はい」と言い、もう一度頭を下げました。彼は自転車に跨り、ゆっくりとペダルを漕ぎ始めました。「さようなら、島津くん」後ろ姿に声をかけると、彼は慌てたように自転車を停め、振り返りました。「……さようなら」その絞り出すような声を聞いたとき、私は胸を突かれました。彼は、蛍子だけでなく、私とももう二度と会えないのだと、そう確信して別れを告げているのだと感じたからです。アスファルトに落ちた濃い夏影を切り裂くように、自転車は遠ざかっていきました。
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